レース業界の重鎮が逝去

レース業界の重鎮が逝去

日本一速い男を支えたホシノインパル金子豊さんと
キャビンカラーで日本中を沸かしたレーサー松本恵二さんが相次ぎ逝去

 元祖「日本一速い男」と言えば、星野一義以外には存在しない。星野を日本一速く走らせるために、彼を後方から陰ひなたになって支えた人間がいた。また「日本一速い男」のライバルがいた。テレビのCMにキャビンたばこカラーのマシンとレーシングスーツ姿で現れたダンディなレーシングドライバー。そんな日本レース界の重鎮が、この5月に矢継ぎ早に天国に召されてしまった。

  

二人三脚で上り詰めた「日本一」

 星野一義はカワサキコンバットというモトクロスチームに所属。そこでチームメイトだったのが金子豊だった。二輪から四輪に転向した星野はめきめきと頭角を現しレース界も若手有望株として注目されていた。一時は故郷の秋田に帰っていた金子だが、星野の妹を妻としてめとった後、星野はマネージャーという形で金子を迎え、1980年に日産系アフターパーツを扱うホシノインパルを二人で立ち上げた。
星野が社長、金子が副社長となりホイールを全国行脚して金子は売りに歩いたという。
一方、1983年にはホシノレーシングの社長として金子は就任。以来、数々のドライバータイトルやチームタイトルを獲得したのが金子だ。「星野の女房役」として知られ「星野がレースに全力で打ち込めるのは金子あってこそ」と言われた名将の金子だが、5月3日に亡くなった。星野の義弟ではあるが、年上だった金子豊の数々の故人の功績をここに讃えたい。

 

星野一義(右)の義理の弟にして女房役を見事に勤め上げた金子豊。同時に日本のモータースポーツシーンも牽引してきた。それだけに若手には厳しかったが、勝つためにはいつも貪欲だった
星野一義(右)の義理の弟にして女房役を見事に勤め上げた金子豊(左)。同時に日本のモータースポーツシーンも牽引してきた。それだけに若手には厳しかったが、勝つためにはいつも貪欲だった

 

ハーフのような顔立ちと速さが際立った松本恵二

  

F1まで上り詰めた中嶋悟も、日本一速いという異名を取った星野一義も、はまったときの松本恵二の速さには叶わなかった
F1まで上り詰めた中嶋悟も、日本一速いという異名を取った星野一義も、はまったときの松本恵二の速さには叶わなかった

 さて、そんな「日本一速い男」星野のライバルだったのが、京都出身の松本恵二だ。ツーリングカーから経歴をスタートし、鈴鹿サーキットを中心に活動。1978年から始まった日本のトップカテゴリーである全日本F2選手権だが、翌79年には第2戦の西日本サーキット(後の美祢サーキット・現マツダ美祢自動車試験場)、第4戦の富士スピードウェイ、そして第6戦の鈴鹿サーキットで優勝を飾りわずか1ポイント差で星野一義をかわしてシリーズチャンピオン(マーチ782・792/BMW M12/7)に輝いた。

 以降、中嶋悟や長谷見昌弘などとともに日本のトップレーサーして活躍。1983年には当時大人気だった富士グランチャンピオンレースでも2勝した星野を僅差でかわしてシリーズチャンピオン(MCS IV マーチ822/BMW M12/7)を獲得している。

松本は全日本F3000選手権の1992年最終戦をもって惜しまれながらも現役を引退し、後進に道を譲った。写真は鈴鹿サーキットで行なわれた松本の引退セレモニー
松本は全日本F3000選手権の1992年最終戦をもって惜しまれながらも現役を引退し、後進に道を譲った。写真は鈴鹿サーキットで行なわれた松本の引退セレモニー

 これらのレースシーンでの活躍とハーフのような顔立ちから、1986年シーズンには日本たばこ産業のCABINがスポンサーとなりCMなどで松本氏のレーシングスーツ姿が放映され一躍人気者となった。

 以降も第一線で活躍したが、1992年に惜しまれながらもレーシングドライバーを引退。それからは若手の育成に注力し、童夢や5ZIGENなどで監督として采配を振るった。

 当時のレーシングドライバーは飲酒をする人が少なかったが現役時代からお酒が好きだった松本恵二。65歳という若さで亡くなるというなんとも悔しい悲報だった。

 皮肉にも「日本一速い男」を支えた女房役の金子豊と、そのライバルとして闘ったダンディな松本恵二が次々と鬼籍に入った。間違いなく日本のモータースポーツ人気を牽引してきたお二人の功績を讃えるとともに、ご冥福を心からお祈り致します。

 文中:敬称略

  

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