[動画]クルマ好きなら知っておきたい自動車文化遺産「多摩川スピードウェイ」

[動画]クルマ好きなら知っておきたい自動車文化遺産「多摩川スピードウェイ」

■“レーシングドライバー”本田宗一郎、デビューの地

 WEBCARTOPが勝手に選ぶ「自動車文化遺産」。

 その第2弾として紹介するは、東急東横線の車窓から見える、神奈川県川崎市中原区にあった、「多摩川スピードウェイ」。じつはこの「多摩川スピードウェイ」こそ、日本初、そしてアジア初の常設サーキットだった。

 オープンは1936年5月9日。79年前のことだ。
1周1200m、コース幅20m、長径450m、短径260mのオーバールコースで、路面は未舗装のダートトラック。敷地の所有者は東横電鉄(現剤の東急)で、建設資金も東横電鉄が7割、残りを三菱グループの株主が出資した。

神奈川県川崎市の丸子橋の脇からコンクリート製の観客席の跡が残る(階段のように見えるが・・・)
神奈川県川崎市の丸子橋の脇からコンクリート製の観客席の跡が残る(階段のように見えるが・・・)
ホンダの創立者である本田宗一郎さん兄弟のマシン「浜松号」
ホンダの創立者である本田宗一郎さん兄弟のマシン「浜松号」

 オープニングレースは、同年6月7日に行われた「全日本自動車競走大会」。

 メルセデス、カーチス、インヴェィクタ、ハップモビルなどの輸入車勢に加え、この頃スピード競技に熱心だった国産のオオタ(のちの「東急くろがね」)やダットサンもエントリー。

 そして、本田技研の創始者、本田宗一郎も実弟の弁二郎と組んで、フォードをベースにチューニングした「浜松号」で出場!

 8バルブだったオリジナルのエンジンを、独自に16バルブに改造! 絶対的パワーにモノをいわせ驚異的な速さを見せつけた。しかし、ゴール直前、猛スピードでコーナーに進入したが、曲がりきれずに転倒、クラッシュ!!

写真は本田宗一郎さんがウデを磨いたカーチス号
写真は本田宗一郎さんがウデを磨いたカーチス号

 本田兄弟は車外に放り出され負傷し、マシンは大破したが、ふたりに命の別状はなかった……。

 それにしても、「エンジンの正義」、「POWERED by HONDA」の原点を感じさせるトピックだ。

 メインスタンドは多摩川の土手にコンクリートで作られ、このオープニングレースの観戦者は3万人だったといわれている。

 この「多摩川スピードウェイ」での「全日本自動車競走大会」は、1939年が最後。合計で6回の四輪レースが開催されたが、その後は日中戦争の激化の影響で幕を閉じた。

 現在、その跡地はプロ野球の日本ハム球団の多摩川グラウドになったが、現在は多目的広場やジョギングコースとして、市民の憩いの場となっている。
だが、土手には、今なおコンクリートの観客席だけが、当時の面影を残している。

 日本の四輪レースの原点を求め、多摩川の河川敷まで足を伸ばしてみるのもいいのでは?

 (「多摩川スピードウェイ」が整備される前は、オリンピア球場の跡地で、当初は「オリンピア・スピードウェイ」と称していた)

 第2回大会には日産が参戦して、以下の映像を残していた。映像をよく見ると、当時と今で変わらない東急東横線の架線が見て取れる。

  

画像ギャラリー