引退後は何をしている? レーシングドライバーが語る往年の「スター」達の「いま」と大切な「役割」 (1/2ページ)

創成期に活躍したレジェンドドライバーはいま80歳前後に

 日本のモータースポーツの歴史はどれほどだろうか。ウィキペディアなどで調べてみると、1922年に「第一回日本自動車レース」なるものが開催されたと書かれている。1936年には東京都と神奈川の県境を流れる多摩川の河川敷に「多摩川スピードウェイ」がオープンしたそうだ。これらは第二次世界大戦以前の年代であり、かなり古い時代からモータースポーツに取り組む人たちがいたようだ。

 戦後になると「小型自動車競走法」なる法律が制定されるが、これはオートレースなど勝者投票券を販売するいわゆる賭けごとに類する競争を規制するもの。現代のモータースポーツとは異なる視点から取り決められている。

 1960年代には、ホンダが1962年に鈴鹿サーキットを開設。翌1963年に「第一回日本グランプリ」を開催した。そして1965年には船橋サーキット、1966年に富士スピードウェイがオープンするなど、欧米スタイルのカーレースがモータースポーツの形態として定着するようになる。

 トヨタや日産、ホンダなど自動車メーカー各社が積極的に自動車レースに参戦するようになり、メーカー契約としてレーサーを雇い入れ「花形レーサー」として多くのモータースポーツファンの憧れとなった。

 この時期が日本のモータースポーツ創世拡大期と考えれば、当時20代で活躍していた花形レーサー達も今は80代前後になっている。彼らはその後、どのような生活を送っているのだろうか。かくいう僕も60歳の還暦を過ぎ、こうしたレジェンドドライバーたちの仲間入りをさせていただける年代となった。

 F3000やグループC、グループAなど、さまざまなカテゴリーで活躍していたのは40歳まで。その後は自動車メーカーやタイヤメーカーのテストドライバーとして活動。またプロレーサーとして活動する以前からモータージャーナリズムの世界でも車両評価や執筆活動を行ってきたので、現役当時は「二足のわらじを履く」ドライバーとして忌み嫌われたものだ。レーサーはレースだけに専念し、勝てなかったらさっさと身を引く。そんな考え方が美徳とされていた時代だったから、僕のようにレース以外でも活動の場をもつ者に対しては厳しい環境だったわけだ。


中谷明彦 NAKAYA AKIHIKO

レーシングドライバー/2023-2024日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員

中谷明彦
愛車
マツダCX-5 AWD
趣味
海外巡り
好きな有名人
クリント・イーストウッド、ニキ・ラウダ

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