かつてランボルギーニに「チャリ通」していた青年が生んだ「億超え」スーパーカー! パガーニの正体とは (1/2ページ)

スーパーカーを作るために単身イタリアに渡ったオラチオ

 アルゼンチンのカルシダに生まれ、スーパースポーツの世界に我が身を置くためにイタリアへと渡った、オラチオ・パガーニ。彼の名前、そして彼が社長を務めるパガーニ・アウトモビリの名前は、もはやスーパーカー・ファンの間では知らない者はいないだろう。

 オラチオが最初にその門を叩いたのはランボルギーニにほかならなかった。ここでデザイナーとして、そしてまたのちのパガーニ車に大きな影響を与える先進的な複合素材についての研究を務めたオラチオは、ランボルギーニ時代にもさまざまな作品をデザイナーとして残している。たとえばカウンタックの最終モデルとなったアニバーサリーや、それ以前にランボルギーニが試作した実験車のカウンタック・エボルチオーネにも、彼の才能は最大限に発揮されているといってよいだろう。

 1980年代終盤のランボルギーニは、カウンタックの後継車を誕生させるために必死であったから、オラチオの存在は必要不可欠な存在だった。実際オラチオは1991年に、それまでの経験をもとに軽量なCFRP製品の開発と生産を行うモデナ・デザイン社を、ランボルギーニの本社に程近いサンチェザリオの地に設立。いわゆる社外スタッフとして次世代12気筒モデルの姿を探る立場にあった。

 パガーニがまず抵抗を感じたのは、これまで受け継がれてきた鋼管スペースフレーム構造で、新たにCFRP製のモノコックタブを基本構造体として使用することを、ランボルギーニに強く問うことになった。

 だが当時のランボルギーニには経済的な事情から、その案を受け入れたニューモデルを市場に送り出すまでの余裕はなかった。同時に描かれた流麗なボディデザインとともに、パガーニによる次期ランボルギーニ製12気筒モデルは、残念ながら廃案となってしまったのだ。

 実際に1990年にデビューしたのは、それまでのカウンタックと同様のメカニカル・アーキテクチャーを持つディアブロで、これはマルッチェロ・ガンディーニと当時の親会社であるクライスラーによってデザインされたモデルである。


山崎元裕 YAMAZAKI MOTOHIRO

AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員 /WCOTY(世界カーオブザイヤー)選考委員/ボッシュ・CDR(クラッシュ・データー・リトリーバル)

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趣味
突然思いついて出かける「乗り鉄」
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