モータースポーツイメージが薄い? いやトヨタのル・マンの歴史を見ると「情熱と凄さ」がまるわかりだった! (1/2ページ)

この記事をまとめると

■トヨタのル・マン参戦は36年前から始まっていた

■一時参戦してない時期もあったが、今では日本から唯一参戦しているメーカーである

■世界3大選手権でF1以外のふたつを制覇しているのも日本メーカーでは唯一だ

レースでもやっぱり凄かった! トヨタのル・マン参戦を振り返る

 今年2021年のル・マン24時間で、ル・マン史上に残る大会4連覇を成し遂げたトヨタだが、その発端は1985年のグループCカー時代にさかのぼる。

 トヨタとしてのモータースポーツ活動は、1960年代終盤から1970年にかけての2000GT、トヨタ7に端を発するが、排ガス対策が大きな課題となってからは撤退。海外での活動は、一部識者の活動によってチーム・トヨタ・アンダーソン(後のTTE=トヨタ・チーム・ヨーロッパ)を設立してラリーに参戦。主に販売促進(PR効果)を目的とする活動だったが、グループBカーの時代を迎えてサファリを3連覇。これは日産の4連覇(1979〜1982年)に次ぐ記録だった。

 このグループB規定の発足と同時にスタートしたのが、グループC規定によるスポーツカー耐久レースだった。このグループC規定は、速く走ることに対して初めて制約(使用燃料料規制)が設けられたレースだったが、自動車メーカーを主エントラントとするスポツーカーレースでは、メーカーには技術研鑽という参加目的、意義、役割が課せられ、かえって新たなメーカー参入を促すレース規定となっていた。

 これに呼応した日本メーカーがトヨタと日産だったが、両者とも最初はメーカーが前面に出る体制ではなかった。トヨタはトムスと童夢がジョイントするスポーツカープロジェクトに、トヨタ東富士がエンジンを供給するかたちでの参画だった。初のル・マン参戦はは1985年のことだったが、やはりトムス85C(童夢85C)にトヨタ4T-GT型エンジンを積む車両パッケージでの登場だつた。この時点でトヨタの参戦体制は、まだプライベーターに対する積極支援の域を出ていなかったが、内外でのグループCカー活動を重ねていく過程、とくにル・マンで完敗を繰り返すと、このままの体制では勝てないと判断するようになり、グループCカー専用エンジンの開発に着手。

 この時点で、グループCカー成否のカギは、燃費に優れた高出力エンジンにあると判断したトヨタは、トヨタ7以来となる純レーシングエンジンの開発を決定。このエンジンが3.2リッターV8ターボのR32V型で、1988年、童夢の助けを借りて開発した新型マシンの88C-Vに搭載してグループCレースに参加。発展型となる89C-V(1989年)と90C-V(3.6リッター、1990年)を擁してル・マンに挑戦。1990年は6位完走と一応の成果を残せる段階に達していた。

 そして1991年、グループCカー規定が当時のF1エンジンと同じNA3.5リッター規格に変わると、トヨタは1991年のル・マンを回避してその期間を新型マシンの開発にあて、翌1992年と1993年のル・マンに新開発のV10エンジン(807E型)とやはり新開発シャシーのTS010を組み合わせて参戦。プジョー905との一騎打ちとなった1992年のル・マンは印象深いレース展開となり、レースの半分を見舞った雨のレースの後半戦、ドライ路面となった段階で捨て身の追い上げを見せたTS010は、わずかにプジョーに届かぬ2位惜敗という戦いぶりを見せていた。プジョーとの差は、前半戦で使用したレインタイヤ(ミシュラン対グッドイヤー)の性能差が明暗を分ける結果となっていた。

 グループCカー規定が消滅した1994年以降、トヨタとしてのル・マン参戦活動はいったん休止するが、SARDが94C-Vで参戦した1994年の大会で2位に入る善戦を見せていた。このレースは、終盤までトップを走りながら、トラブルによって2位に後退したものだった。そして1998年、GTカー規定下のル・マンにトヨタはTTEが開発の主導を受け持ったTS020で復帰。2年目となる1999年のル・マンでは、本命2台が相次いで脱落する状況下で、最後に残ったナンバー3カーがBMW V12LMと接戦を演じ、再び2位に食い込む予想外の健闘を見せていた。


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