メカニックにカメラマンから運び屋!? 自動車ライターはアルバイト時代からクルマ漬けだった!

この記事をまとめると

■ライター大内明彦さんのクルマに関係するアルバイト経験を紹介

■GC10型スカイラインGTのミッション交換を行った思い出も

■アルバイトで出会った人たちが人生に大きな影響を与えてくれたという

スカイラインのミッションが重かった!

 物心ついた頃からクルマが好きで、小学生時代には、父から買ってもらった自動車年鑑を隅から隅まで読み尽くし(眺めつくし?)、ジム・クラークの伝記を読んではモーターレーシングへの関心を深めていた子供だった。

 そんなわけで、人生最初のクルマに関するアルバイトは、中学3年生のときに経験した見習い整備士と呼べるようなものだった。知り合いのディーラー・セールスマンに頼み込み、整備工場でオイル交換やフォグランプの取り付けなどをやらせてもらった。お金を稼ぐことが目的ではなく、クルマに触れること自体がうれしく楽しかった。

 高校時代も、普通科の学校ながら自動車部があって、このクラブに加入すると担当顧問の手配で夏期休みにディーラーの整備工場でメカニックのアルバイトを経験することになる。ピットに潜り、GC10型スカイラインGTのミッション交換を行ったが、高校生の体でかつぐには、かなり重い代物であったことを覚えている。

 自動車に関するアルバイトが本格化するのは、やはり大学に入ってからで、最初は伝手もなかったことから新聞募集で見たガソリンスタンドを選んだが、同時期に週に1度だけ放送が組まれていた自動車番組(ラジオ関東、ザ・モーターウィークリー)の調整室に出入りするようになり、主宰していた渡辺靖彰氏やレギュラーメンバーだった津々見友彦氏、番組裏方仲間として顔を出していた両角岳彦氏と知己を得ることになる。

 さらに、この番組スタッフだったカメラマンから東京モーターショー(自動車工業振興会)の事務局カメラマンのアルバイトを紹介された。写真は、父方の実家が写真館を営んでいたこともあり、また父も趣味で写真を撮っていたことから、門前の小僧習わぬ経を読む、状態でカメラを扱えたことが役立った。

 このカメラマンの口利きで、自動車雑誌のアルバイトも行うことになる。と言っても、編集業務ではなく、クルマを何台か集めて行う企画が生じた際、メーカーから借り受けた広報車をロケ地まで往復させる「運び屋」のアルバイトだった。このクルマ運びのアルバイト、企画の規模(運ぶ台数)によってメンバーは変動したが、その中で1人ズバ抜けてクルマを操る能力に長けた人間がいた。まだ学生の中谷明彦氏だった。また、そのときのカメラマンが、まだF1取材に出向く前の時代、若かりし頃の金子博氏だったことも付け加えておきたい。

 その後、大学の最終年に常駐で自動車雑誌の編集アルバイトをするようになり、それがきっかけで自動車雑誌編集者の道を歩むことになる。気がつけば、幼少期からどっぷりとクルマに浸った半生だったが、その都度出会った人たちが、自分の人生に大きな影響力を及ぼしてくれことに感謝するばかりだ。何かの形で恩返しができれば、と思っている。


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