
この記事をまとめると
■航空機産業の崩壊がエンジニアを地上モビリティへ誘導した
■内需の大きさと省燃費志向も自動車産業の成長を促進したといえる
■グローバルに評価を得て現在の8社体制に至るも再編の波は続く
なぜ日本は自動車大国になれたのか?
極東の島国である日本、欧米では最果ての地(大西洋を中心とした世界地図を見れば一目瞭然)として認識されがちだ。そんな日本だが、自動車メーカーの数は多い。乗用車メーカーだけでもトヨタ・ダイハツ、スズキ、ホンダ、日産、マツダ、スバル、三菱と8社が数えられるという認識が広まっている。
なぜ、日本はこれほどの自動車大国となったのだろうか。おそらく、もっとも大きな要因は第二次世界大戦に負けたことだ。
戦後、日本はGHQ(連合国軍総司令部)によって実質的に統治された。その際、製造業については非常に厳しい管理下に置かれていた。敗戦国が再軍備できないよう、製造業の能力を奪うというのが重要な狙いであったといえる。
たとえば、航空機については1945年11月の「航空禁止令」によって、航空機を作るだけでなく、研究開発までも完全に禁じられた。同時期、船舶についても造船設備が戦後賠償の対象として差し押さえられ、鋼船(大型船)の製造についても許可制だった。
自動車についても製造許可が必要で、乗用車の生産制限が撤廃されたのは1947年10月のことだった。結果として、鉱工業指数(鉱業と製造工業の生産量や出荷を指数化したもの)が戦前のレベルに戻るのに10年の月日を要するほど、日本の製造業はどん底に落ちていた。
そうしたなかで進んだのが、工業製品の開発や生産に関わる人材の再配置だ。航空機産業が復活することは「ほとんど不可能」と認識された当時において、多くの航空機エンジニアは異なるジャンルに移る必要がある。たとえば、戦後に多数生まれた二輪スクーター製造業は、そうしたエンジニアの受け入れ先のひとつだったとされている。
業態のシフトは、航空機メーカーについても同様。ご存じのようにSUBARUのルーツである中島飛行機は、戦後解体されたがそのなかから1947年に「ラビット」スクーターが生まれている。
戦後に生まれた多くの二輪メーカーは、いまでいうベンチャー企業のような立ち位置で、試作や少量の販売だけで消えていってしまった企業も多かったという。しかし、そうしたなかで生き残ったメーカーが、二輪から四輪へと事業拡大を進めていくこともあった。
前述したスバルもそうであるし、ホンダやスズキも二輪からモビリティ事業を始めている。三菱自動車は三菱重工業から分社した自動車メーカーだが、三菱重工業もシルバーピジョンというスクーターを1946年に生み出すなど二輪由来のブランドといえる。
このように、GHQによって航空機の研究開発を禁じられた結果、エンジニアの多くが二輪や四輪といった地上を走るモビリティに向かったことで、期せずして日本の自動車産業は優秀な人材を豊富に抱えることになった。偶然ともいえるリソースの集中が、日本の自動車産業が成長する上で大きな力になったと考えられる。