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メーカー選手権のヒーローたち【ポルシェ917】 (2/2ページ)

メーカー選手権のヒーローたち【ポルシェ917】

フォードGTに真っ向勝負を挑みポルシェが悲願を達成

 前回紹介したフォードGT、通称「GT40」は、1966年から69年まで、スポーツカーレースの檜舞台として知られるル・マン24時間レースで4連覇を達成。同時に66年の国際スポーツプロトタイプ選手権、67年の国際スポーツカー選手権と世界レベルの選手権を連覇。さらに68年から始まった国際メーカー選手権でも記念すべき初代のチャンピオンに輝いている。

 このフォードGTに真っ向勝負を挑み、69年には国際メーカー選手権で王座に輝き、70年には悲願だったル・マン24時間レースの総合優勝を勝ち取ったのがドイツの雄、ポルシェだった。

 そもそも、天才的なエンジニアとして知られるフェルディナント・ポルシェ博士が興したポルシェは、操業当初から自動車レースとは深い関係があったが、自らの名を冠したクルマは比較的小排気量で、レースでもクラス優勝は数知れないほど無数にあったが、総合優勝は大排気量車に譲るケースが少なくなかった。

 個人的には小学生のころ、8歳年上の兄から「レースに負けると排気量を大きくして再挑戦するライバルと違って、小さい排気量のままチューニングを重ねて再挑戦するのがポルシェの流儀」と吹き込まれたせいか(?)エンジニアリング・オリエンテッドなポルシェを崇拝する気持ちは強く、中学生のころにはドイツのポルシェ本社宛に手紙を書き(正確にはまだ西ドイツだったが)、カタログを所望した記憶がある。送られてきたのは911の広報写真だったが……。

 閑話休題、フォードGTを打ち破ってスポーツカーレースの頂点に立ったポルシェの、当時の主戦マシンは917。世界のモータースポーツを統括するFIA(世界自動車連盟。厳密にはその下部組織であるFISA=国際自動車スポーツ連盟)が定義する車両カテゴリーとしてはグループ4(スポーツカー)に組み入れられているが、そこには、日本の片田舎に住んでいた小学生(とその8歳年上の実兄)には窺い知ることのできない深い事情があったのだ。

 当時のスポーツカーレースは3リッター以下のグループ6(レーシング・プロトタイプ)と5リッター以下のグループ4によって戦われていた。

 単純に考えれば5リッターのほうが有利だが、こちらはスポーツカーのカテゴリーで、トランクのスペースを確保する必要があったりする上に、最低でも50台を生産する必要があった。

 一方のグループ6はレーシング・プロトタイプで最低生産台数の縛りがなく、よりレーシングカー的なパッケージが使えるカテゴリーだった。

 アメリカでビッグ3の一角を占めるフォードにとって、50台の(レーシングカーに近い)スポーツカーを生産することは無理ではなかったが、ポルシェのような小さなメーカーにとっては50台という数字はハードルが高かった。それでより小まわりの利くグループ6で戦いを挑んできたのだが、69年にレギュレーションが改変され、事態はポルシェに有利に動いた。グループ4の最低生産台数が緩和され、50台から25台に半減されたのだ。

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