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デ・トマソ・パンテーラはなんと24年間も生産されていた! スーパーカーブームを支えた伊&米コラボマシン (1/2ページ)

デ・トマソ・パンテーラはなんと24年間も生産されていた! スーパーカーブームを支えた伊&米コラボマシン

この記事をまとめると

■デ・トマソから1970年に米伊コラボのスーパーカーであるパンテーラが登場した

■パンテーラはLから始まり、GR3、GT4、GTS、GT5、GT5Sと進化を続けた

■1970〜1994年までの24年間で7298台が生産されたといわれている

新天地を求めてイタリアに渡った男の夢が結実

 1999年に創立40周年を祝う盛大なアニバーサリー・イベントを開催したデ・トマソ。このイベントには、病床に倒れて久しかった創業者のアレッサンドロ・デ・トマソ氏も姿を現し、次期パンテーラとされたプロトタイプも公開された。

 しかし、それからわずか5年後の2004年、デ・トマソ氏を失っていた同社は、会社を清算するという決断を下すに至った。その45年間の歴史のなかでもっとも成功したモデルといえば、それは日本でももっとも高い知名度を持つ「パンテーラ」。今回はこのパンテーラを再検証してみよう。

 アルゼンチンからイタリアのモデナへと新天地を求めたアレッサンドロが、最初に得た職はマセラティのメカニックであり、同時にレーシングドライバーとしての職だった。しかし、当時のマセラティはモデナのスポーツカーメーカーとしては名門中の名門。彼がレースで活躍できる場は非常に限られたものだった。

 しかしながら、彼はここでその一生を左右する大きな出会いを得るのである。それは後に妻となるイザベルであり、彼女が持つ豊富な資金力こそが、マセラティからOSCAへの移籍に始まり、デ・トマソ自身の名を掲げたレーシングマシンの製作を可能にする。時は1999年が創立40周年であったことを知れば一目瞭然であるように、1959年のことである。

 多くのスポーツカーメーカーがそうであるように、デ・トマソもまた、レース活動の資金を得るために、また自身の名を世界へと轟かせるために、レースの世界からオンロードモデルの世界へと進出を図ることを考える。そのタイミングは偶然にも実に素晴らしいものだった。それはレースの世界とは一線を画し続け、その考えを変える意志など毛頭なかったフェルッチオ・ランボルギーニのもとから決別した、あの天才的エンジニア、ジャン・パオロ・ダラーラが、デ・トマソに移籍してきたからにほかならない。

 デ・トマソ初のプロダクション・モデルとなったのは、1962年に製作されたプロトタイプ、スポーツ2000を始祖とするヴァレルンガである。車体中央を前後に貫くバックボーンフレームは、その素材こそアルミニウムからスチールへと変化してはいたものの、ヴァレルンガではひとつのハイライトといえるもの。

 ボディはギアのデザインによるFRP製で、ミッドに搭載されるエンジンはフォード製の1.5リッター直列4気筒エンジンを搭載する。デ・トマソ+ギア+フォード。このパンテーラにも継承される関係は、すでにここで完成されていたのだ。

 さらにデ・トマソはその後、マングスタ、ドゥービルといったモデルを市場に送り出すが、その後1970年にセールスを開始したベスト・ヒットとなるモデルこそが、あのパンテーラにほかならない。

 ティーポ874の開発型式を掲げ、1969年初頭からそのプロジェクトがスタートしたパンテーラ。チーフ・エンジニアはもちろん、かのジャン・パオロ・ダラーラである。ミッドに搭載されるエンジンが、フォード製のV型8気筒OHV、351立方インチ(5.75リッター)のクリーブランドユニット(生産工場の名前からこのような愛称で呼ばれることも多い)であることは、最初からダラーラに伝えられていた。

 しかし、その一方で彼の頭を悩ませるさまざまな制約がそこにはあった。年間で5000台という数字を、当時の1万ドル以下の価格で販売するという条件はその代表的なものだ。メインとなる市場はもちろんアメリカ。フォードは自社のリンカーン・マーキュリー部門のディーラーネットワークを通じて、その数字が可能であると考えたのである。

 これまでのバックボーンフレーム構造ではそのコスト高は避けられない。そう判断したダラーラは、パンテーラでフレームビルトインタイプのセミモノコック構造を採用。一方ボディは、もちろんジウジアーロが離脱した後に、チーフ・デザイナーとしてオランダ系アメリカ人のトム・チャーダを迎えていたギアが担当し、1969年にはすでにそのデザインはフォードにプレゼンテーションされていたという。

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