
この記事をまとめると
■初めてポルシェの名が冠されたモデルはミッドシップだった
■ミッドシップを採用したのは博士が携わっていたレーシングカーの影響が大きい
■ポルシェ博士にとってはエンジンの位置は大きな問題ではなかった
最初の356はミッドシップレイアウトだった
ポルシェから914やボクスターのようなミッドシップスポーツが発表されるたびに、ポルシェ博士が本当に作りたかったのはミッドシップだった、などとまことしやかに語られがち。ですが、博士は当の昔に、それどころかポルシェの第1号車にミッドシップスポーツを作り上げています。最初のポルシェといえば、RRレイアウトの356というのが定説ですが、じつは356/1とされた原初の356はまぎれもなくミッドシップ、2シーターオープンだったのです。
いまさら説明の必要はないでしょうが、初代ポルシェ356はフォルクスワーゲンのエンジンやコンポーネントを多数流用して作られています。それゆえ、ワーゲンと同じくRRレイアウトで、鉄板プレスのシャシー構造にしても似ており、ラゲッジスペースやコクピットのユーティリティだってビートル譲り。356が実用にも耐える優れたスポーツカーと呼ばれる所以でしょう。
しかし、ポルシェ博士は自分の名前を付けた公道走行可能なクルマの第1号車はミッドシップとしています。歴史家によればいくつかの理由があげられるのですが、第一には当時携わっていたイタリアのチシタリアでミッドシップのレーサー、「チシタリア・グランプリ」の影響としています。1.5リッターのスーパーチャージャーをミッドに積んだシングルシーターは、ポルシェ博士に大いなる可能性を感じさせたのだと。
第二のポイントはフォルクスワーゲンからのパーツ供給や、設計料としてのロイヤリティに期待がもてたこと。356/1を作った当時、まだそれらは決定してはいなかったのですが、ポルシェ博士は水面下で契約締結に向けて動いていたことが明らかになっています。ワーゲンの出資、協力があればチシタリアと同じくミッドシップの市販スポーツカーが作れると、ポルシェ博士が算段したのも不思議ではありません。
そして、第三の理由としてあげられているのが「ミッドシップスポーツのほうが注目されるだろう」という思惑。たしかに、納得しやすい理由ですが、じつはこれが上手くいかなかった。当時のポルシェはオーストリアのグミュントという片田舎にあるちっぽけな会社で、356のデザインにしてもエルヴィン・コメンダという職工あがりのデザイナー。その上、ポルシェ博士は戦犯くずれの噂が絶えないころでしたから、いくら新型のミッドシップスポーツを発表しようとも世の評価はイマイチ。
加えて、ドイツ国内はまだ敗戦の影響が色濃く残っていたことも無視できないでしょう。その結果、話題にすら上がらず、当時の出資者が手を引くなどという事態となったのです。