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FORD COSWORTH DFV時代のF1 part.2(1975年-1978年)

新たなチャレンジャーと幻に終わったチャレンジ

 1970年代のF1GPは新規参入コンストラクター(チーム)が続出、長閑ではあったが大きな盛況を見せることになった。先ず70年にはマーチとティレルがコンストラクターとして初参戦。72年にはウイリアムズ、73年にはシャドウとエンサイン、そして74年にはヘスケス、トロージャン、ペンスキー、パーネリ、さらにはエイモンやトウクン、リンカー、マキなどが加わった。12年ぶりに復帰を果たしたローラも含めて74年シーズンにF1GPに参戦したコンストラクターは20を数え、70年代後半は20前後で推移している。多くのコンストラクターがF1進出を果たせたのはDFVというF1基準の優れたエンジンがあったから。同時に、フェラーリなど一部を除けばDFVで横一線だったからこそ、シャシーとしても技術的に、新たなチャレンジをトライする必然もあった。

★それぞれが三角断面のツインチューブ・モノコック★
1975 Brabham BT44B・Ford Cosworth DFV
1969年にDFVユーザーとなり、70年のBT33では初めてモノコック・シャシーを採用したブラバムは、73年に投入したBT42では左右のチューブをそれぞれ三角断面とし、シャシー自体が台形デザインとなった新モノコックを採用。奇才と呼ばれ、のちにマクラーレンで16戦15勝を飾るMP4/4を仕上げることになるゴードン・マレーの処女作となったBT33はショートホイールベースも功を奏して、コンストラクターズカップで前年の9位から4位に躍進。BT44を経てBT44Bへと進化した75年にはフェラーリに次ぐシリーズ2位に進出していた。マルティ二・カラーが映える75年のBT44Bは、2013年12月のイタリアの国立自動車博物館の企画展で撮影。

★国内で2番目のF1コンストラクターが登場★
1975 Maki 002C(F101C)・Ford-Cosworth DFV
新年早々に、日本から世界に挑んだF1チャレンジャーとして紹介したマキも、DFVによりコンストラクターの仲間入りを果たせた好例。エバカーズやマナでF2マシンや富士GC用のレーシングスポーツなどを手掛けた三村健二と、フリーランスのデザイナーだった小野昌朗のコンビで、ホンダのF1以来となる国産…ただしエンジンはDFVだったから、正確には国産F1シャシーとなったマキF101は1974年に完成した。同年3月にロンドンで行われた発表会では、日本人スタッフが偽名で紹介されるなどミステリアスな一面も。実戦参加に当たっては大幅に手を加えたF101Bが用意されたが事故などもあり74年シーズンは2戦にのみエントリー。翌75年にはF101Cに移行。オランダGPから参戦を開始したが、予選落ちが続き、ノンタイトル戦のスイスGPでの決勝13位が唯一の結果。当時、イギリスのベースキャンプに居候してイギリスGP、西ドイツGP、オーストリアGPとチームに帯同していて、2015年にスパ-フランコルシャンのサーキット博物館で40年ぶりに再会した。

★駆動輪のリアをタンデムの4輪に★
1976 March 240/771 Formula 1
これも新年早々、技術革新に挑んだマシンとして紹介…次のティレルは写真付きだったが、こちらは写真なしで文章のみで紹介したマーチの6輪車。マーチは、冒頭でも触れた新進のコンストラクター。1969年に設立され先ずはF3用の793を発売。翌70年には早くもF1 マシンの701をリリースしている。ちなみに社名は今やFIAの会長となったマックス・モズレーやデザイナーのロビン・ハードなど、創設メンバーのイニシャルを繋いでできたもの。市販品とはいえ戦闘力は高く、ジャッキー・スチュワートを擁するティレルがデビュー2戦目のスペインで早くも優勝、コンストラクターズカップで3位につけている。ただしその後は苦戦が続き、76年のオフには、同シーズン用の761をベースに、左右1本ずつだった大径のリアタイヤを、左右2本ずつの小径タイヤにして空気抵抗を減らすべく設計を変更した240/771を試作している。ただしこれが実戦に参加する以前に規則が変更され、6輪車そのものが認められなくなった。オランダの国立自動車博物館ロウマン・コレクションで撮影。

★フロントに小径のタンデム4輪を採用★
1976 Tyrell P34
やはり新年早々、技術革新に挑んだマシンとして紹介したティレルの6輪車がP34。1960年代からレース活動を続けてきたティレルは、1968年にマトラのセミワークスとしてF1デビューを果たすと、マトラが社内事情からDFVを使用できなくなった70年に独立し市販のマーチDFVで参戦。並行して駆動系のスペシャリストながらデザイナーとしてはルーキーだったデレック・ガードナーがオリジナルマシンを開発。同年の第11戦カナダGPにデビューするやいきなりトップを快走(結果は駆動系トラブルでリタイア)。フル参戦となった翌71年にはドライバーとコンストラクターのダブルタイトルを獲得している。76年にはフロントにタンデムの4輪(=2軸4輪)を採用したP34を登場させた。開発テーマは空気抵抗の低減。実際にはリアタイヤが大きく空気抵抗自体は期待したほどには低減されなかったが、フロントを4輪にしたおかげでブレーキング性能が向上した、とも言われている。デビュー4戦目で1-2フィニッシュを飾り、コンストラクター3位と復調し
ていた。後期モデルも含めて77年シーズンの最終戦まで出走したが写真は76年の前期型でドイツのジンスハイム自動車博物館で撮影。

★ワールドチャンピオンが興したコンストラクター★
1978 Fittipardi F5A・Ford-Cosworth DFV
1972年にロータスを駆り、史上最年少記録でワールドチャンピオンに輝いたエマーソンと、実兄でこちらもF1ドライバーとして活躍したウイルソン、のフィティパルディ兄弟が興したGPチームがフィティパルディ…スポンサーの名を掲げたコパスカー・フィティパルディの方がオールドファンには馴染みが深いだろうか? こちらもDFVのおかげで設立できたコンストラクターと言っていいだろう。最初のオリジナルマシン、FD-01は74年秋に完成。翌75年シーズンにはウイルソンの1カー・エントリーでチームが発進したものの、いきなりクラッシュでマシンは全損、と苦しいデビュー戦となった。翌76年にはエマーソンがマクラーレンから移籍、以後はじわじわとランクアップし78年の第2戦、母国グランプリとなったブラジルGPで2位入賞を果たすまでになった。写真はドイツのジンスハイム自動車博物館で撮影。それにしても壁に貼り付けて展示するとは驚きだ!

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