
同じようなクルマはダメ! 見た目も装備も段違い
1960年代に4輪市場に参入したホンダは小型車販売で鳴かず飛ばずの状態が続いたが、初代シビックで起死回生の大ヒットを飛ばした。北米でも成功を収めると、次のステップへ向けて4輪事業を再編。N360で一世を風靡した軽乗用車から撤退し、世界市場への本格参入を目指すことになった。
そして、大衆車シビックの次に開発されたのが、1クラス上となる中級車のアコードだった。
「シビックはヨーロピアンスタイルで、ああいう台形スタイルは当時の日本にはまだなかった。カローラやサニーとは見た感じがまったく違う。3ドアのアコードを初めて見たときも、これはいけると思いました。クルマはまずデザインに違いと魅力がないと。これが一番大切ですよ」(横山昭允さん)
そこにはホンダの2代目社長・河島喜好の狙いがあった。
「ほかと比べないとわからないような”差”ではなく、”違い”。パッと見て違いがわかる商品をつくってくれと。それが河島さんの強い要望でした。国内で中級車はコロナとブルーバード。この戦争のなかに入っていくわけですから、同じようなクルマをつくっていても絶対ダメだと」(横山さん)
わかりやすい”違い”はデザインだけではなかった。
「このクラスにはまだなかったパワーステアリング(しかも車速応動型)とか5速ミッションを付けたり。それからラジアルタイヤ。これ高かったんです。エアコン(クーラーではない)もクラウンくらいじゃなかったかな。そういうのを中級クラスのなかに落とし込んで、他車になかった魅力をドーンと付けて。もちろん、排気ガスの環境対応ができたCVCCエンジンもあり、シビックからアコードへとビジネスが広がりました」(横山さん)
高い目標を掲げた開発で力を倍増させた心の支え
走りについても非常に高い目標が設定された。
「合い言葉は『130km/h快適クルーズ』でした。その頃は日本車でヨーロッパの道を走ってみると、とてもじゃないけど耐えられるレベルじゃなかった。音にしろ、風、操縦安定性にしろ。日本のメーカーにはやっぱりできないねというのを払拭しようと、その合い言葉を技術的な魂にして。結果的には欧州車に匹敵する走り、それから上級車の快適性、そういったものを兼ね備えることができました」( 横山さん)
初代アコードの開発責任者(LPL)は、シビックに続いて木澤博司さんが務めた。
「木澤さんは(のちにF1の監督も務めた)中村良夫さんとヨーロッパに駐在していたことがあった。そこでいろいろな経験をされていたから、知識がとても豊富でハンドリングについてもうるさかったですよ」(水戸部啓一さん)
デザイン、走り、装備のすべてで高いバリューフォーマネーを実現したアコードは、日本だけでなく北米や欧州でも高い評価を受け、ホンダの4輪事業をさらに飛躍させた。
そして、高い目標を掲げて開発に勤しむチームにとって、もっとも心の支柱になったのは、オヤジこと本田宗一郎と初代副社長の藤沢武夫だ。
「この頃はおふたりとも第一線を退いていましたが、精神的な強い支えになるわけです。ホンダでいつも言われる”買って喜び・売って喜び・作って喜び”という3つの喜びを、自分たちの心に秘めて活動する。開発も営業もそうですが、そういうのがやっぱり我々の力を倍増させてくれたんじゃないかと。創業者の存在というのは全然違うんですね」(横山さん)
2代目を成功に導いた先進装備の積極的な採用
開発現場における宗一郎のカミナリは有名だが、アコードにおいても例外ではなかった。
「初代の開発で、ピラーアンテナをやめて電動にして後ろに置くって言ったら、こんな便利装備なんでやめるんだ! と、研究所中に聞こえるような大声で半日怒られました。そのあとトイレに行ったら、オヤジさんがたまたま横に来た。おい若いの、いろいろ言ったけどな、俺は中学しか出てないから。大学出てるお前たちに頑張ってほしいからって、用を足しながら。そういうのでオヤジさんがホント好きになっちゃうんですよ」(横山さん)
「でも、若い連中には優しかった私がクルマの下に潜っていると、何やってんだと。お答えすると、俺はさぁ……と自分の経験からいろいろ話をしてくれました」(水戸部さん)
さて、2代目アコードは成功した初代のコンセプトを継承。ハードウエアでは、オートレベリングサスペンション、バリアブルに進化した車速応動型パワステ、そしてジャイロケータなど、世界初・日本初のクラスをリードする先進装備の積極的な採用が特徴だ。
そして、エポックメイキングだったのが、日本メーカー初、アメリカでの現地生産だ。
「河島さんは需要があるところに工場をつくることを、1973年頃から考えていました。2代目アコードは当初からアメリカ生産が決まっていた。ただ、西海岸は日本からの輸入、東海岸はオハイオ工場で、両方の品質を合わせるのが大変だった」(水戸部さん)
「たまたまオハイオの街にはドイツ系移民が多かった。ドイツ系はホンダに対して理解があった。アコードはそういった幸運にもいくつか恵まれましたね」(横山さん)
