【世界の名車】最初はフロントガラスもなし! ルノースポール・スピダーの超スパルタンぶり (1/3ページ)

ルノースポールの名前を最初に冠したモデル

 1989年に日本のマツダが送り出したユーノス・ロードスターは、それまでゆっくりと絶滅に向かいつつあったオープン・スポーツカーのカテゴリーを見事に蘇らせた。ロードスターそのものが世界中で売れただけに留まらず、マツダの成功はフィアットがバルケッタを、アルファロメオが2代目スパイダーを、BMWがZ3を、メルセデスがSLKを、そしてポルシェがボクスターを、それぞれ生み出す原動力となったのだ。

 そうした1990年代半ば辺りから次々と誕生したオープンスポーツカーのなかで、もっとも成り立ちが潔くもっともスパルタンだったのは、面白いことに快適な乗り味のクルマを作ることで知られるフランスから生まれ出たクルマだった。ルノースポール・スピダーである。ルノー・スピダー

 ルノーはよく“大衆車メーカー”と表現されがちだが、確かに大衆車を柱に据えるカタチになってはいるものの、実際には総合自動車メーカーというのが正しい。歴史的に見ても簡素な小型車からゴージャスな高級車まで幅広いラインアップを押さえてきた。モータースポーツにも古くからチャレンジし続けているし、スポーツ・モデルだってたくさん生み出してきている。

 とりわけ1969年にチューナーでありレーシングコンストラクターでもあったゴルディーニを、1973年にスポーツカーメーカーでありラリーの世界的名門でもあったアルピーヌを傘下に収めてからは、その傾向はさらに加速した。1976年にモータースポーツ部門を担うルノースポールが設立され、現在もメガーヌやクリオ(日本名:ルーテシア)に“ルノースポール・バージョン”がラインアップされて俊足を見せつけているから、ご存じの方も多いことだろう。

ルノー・スピダー

 スピダーは、その“ルノースポール”の名前を最初に冠したモデルである。ルノー・スピダー

 デビューは1995年。ちょうどアルピーヌA610の生産が終了するタイミングだったが、アルピーヌの名称を使わずにルノースポールとしたのは、もちろんスポーツ系をルノースポールの名のもとに集中したかったという当時のルノーの思惑もあったことだろうが、何よりもこのクルマが純然たるルノースポールの管轄、つまりモータースポーツ部門の事業として作られたクルマであるからだ。

 どういうことかといえば、ルノーは1960年代から継続的にスポーツ志向の強いユーザーのためのワンメイクレースを行ってきており、8ゴルディーニ、サンク・アルピーヌ、サンク・ターボ、サンクGTターボ、アルピーヌGTA、21ターボというような流れで、市販モデルを素材としてきていた。その21ターボの次のワンメイクレース用マシンとしてルノースポールが企画したのがスピダーであり、それまでとは発想が逆で、レーシングカーをロードカーへと仕立て直して市販した、というのが誕生の経緯なのだ。ルノー・スピダー

 最初にジュネーヴショーでプロトタイプが公開されたときには、ほとんどそのままの姿で市販されることになるとは誰も思わなかったに違いない。低くワイドで尖ったスタイリングや斜め上に跳ね上がるようにして開くドアもさることながら、ウインドウスクリーンというものを持っていなかったのだから。ルノー・スピダーのちにフロントウインドウを持つ“パラブリーズ”と呼ばれる仕様が追加されたが、コクピット前方の2枚のウイングで空気を押し上げるエアロスクリーンで風が乗員を殴りつけないようにデザインされた“ソートヴァン”という当初の仕様は、その考え方もスタイリングもかなり斬新だった。ルノー・スピダー

 スタイリングにばかり目が行きがちだったが、好き者達はその中身に注目した。アルミニウムに関する技術では欧州トップクラスだったハイドロ・アルミニウム社と共同で開発したシャシーは、角断面のアルミ押し出し材を溶接して組み上げたスペースフレームとハニカム樹脂ボードで構成したスピダー専用のもの。

 前後ともダブルウィッシュボーンのサスペンションは、ピロボールでジョイントされるプッシュロッド式というフォーミュラマシンさながらの仕組み。ものすごく贅沢な作りとされていたのである。


嶋田智之 SHIMADA TOMOYUKI

2023-2024日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員

愛車
2001年式アルファロメオ166/1970年式フィアット500L
趣味
クルマで走ること、本を読むこと
好きな有名人
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