自動車社会に多大な影響を与えた「60年代のトヨタ車」4選

日本のモータリゼーションの礎となったクルマが多数!

「各部に外国車の影響を受けることが多く、独自性は薄い」と言われがちな日本車であるが、日本車の60年を超える歴史を振り返ると、「外国車に影響を与えた」、「強いインパクトがあった」、「世界初の技術を採用した」、「爆発的に売れた」といったエポックメイキング(画期的)なクルマも思い出すとたくさんある。その中には「壮大な失敗に終わったという意味で印象的だった」というクルマも少なからずあるが、そんなエポックメイキングなクルマをメーカーごと、年代ごとに挙げてみたい。

1)初代クラウン(1955年)

 黎明期の日本車は日産がイギリスのオースチン、日野がルノーのノックダウン生産を行うなど、外国車を学びながら技術力を高めるという手法で先々の発展を目指すことが多かった。しかしトヨタは当時のアメリカ車を手本にはしていたものの、自社開発でクルマ作りのノウハウを蓄積するという開発方法にこだわり、その結果産まれたのが初の純国産車となった初代クラウンだった。また初代クラウンは高い信頼性、耐久性、AT車の追加によるイージードライブといった現代にも通じるトヨタ車が目指す方向を確立した点でもエポッ
クメイキングな1台と言える。トヨタ2000GT

2)スポーツ800(1965年)

 今でも「ヨタハチ」の愛称で呼ばれるスポーツ800は、当時の小型車パブリカをベースにした水平対向エンジン二気筒エンジンを搭載する、屋根の頭上部分だけが外れるタルガトップを採用したオープン2シータースポーツカーだ。

 スポーツ800はエンジンパワーこそそれほどではなかった代わりに、軽さと空気抵抗の少なさを生かした燃費の良さも含めた効率の高いスポーツカー。モータースポーツではライバルのホンダS800に絶対的な速さでは及ばないものの、タイヤや燃料の減りの少なさで、とくに耐久レースではピットインの少なさにより最終的にはS800といい勝負を繰り広げた。また水平対向エンジン+FR、燃費の良さは現在の86&BRZに通じるDNAでもある。

3)2000GT(1967年)

 2000GTはトヨタとエンジンなどを担当したヤマハの共同開発による、今で言うスーパーカーである。2000GTはモータースポーツで目立つ活躍をしたなどの名声こそないものの、当時の大卒初任給の100倍近く、現代の2000万円ほどに相当する238万という価格や、総生産台数337台と言われる希少性はやはり日本自動車史に残るものと言える。

また日本で撮影された映画007の「007は二度死ぬ」で2000GTのオープンカー(市販はされてない)がボンドカーとして使われたことも2000GTの価値を高めた。

4)初代カローラ(1967年)

 一般の人が一家に一台のファミリーカーとして使える大衆車というジャンルを切り開いたのは日産サニーであり、サニーの1年遅れで登場したカローラはその後追いであるのは否めない。しかし初代カローラはサニーより全体的に大きく立派に見える内外装、1リッターのサニーに対し1.1リッターエンジンを搭載し「プラス100ccの余裕」というキャッチコピーを使うなど、サニーに対して「ちょっとずついい」という戦略でサニー以上の成功を収めた。


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