ランボルギーニに振り回された悲運のスーパーカーBMW M1とは (1/2ページ)

この記事をまとめると

■モータースポーツでの優位性を得るべくBMW M1は開発された

■開発・生産を委託したランボルギーニの財政難で複雑な行程の生産を余儀なくされた

■ホモロゲ獲得時には参戦カテゴリーがなくなっていたという悲運のスーパーカーだ

ランボルギーニが開発したBMWのミッドシップスーパーカー

 1970年代初頭、BMWはそのスポーツ性を最大のセールスポイントとすることを、プロダクションモデルの販売戦略の核としていた。そのためにもっとも有効な手段は、もちろんモータースポーツでの活躍ということになるのだが、当時、BMWがサーキットに投じていたスポーツカーは、3.0CSL、あるいはその排気量拡大版ともいえる3.5CSL系のモデルで、それらは最大のライバルであるポルシェ934/935に対して、残念ながら十分な対抗力を持つものではなかった。

 そこで考えられたのが、E26の開発コードを与えられた、対ポルシェを直接の目的としたミッドシップ・スポーツであり、それには後に現在にまで続く「M」の血統の始祖にあたる「M1」の車名が与えられた。

 実際にM1は、1978年秋に開催されたパリ・サロンで正式に発表されるが、それは当時のグループ4の認定を目的としたホモロゲーションモデルだった。BMWは、ここから1980年の末までに800台のM1を生産し、途中でホモロゲーションを得ることを計画していたのだが、それはある事情によって大きな遅れを生じてしまうことになる。

 BMWにとってM1のようなミッドシップのスーパースポーツは、これまでほとんど未知の分野だった。そこでその開発と生産を他社に委託する計画が新たに立ち上がり、その相手先として選ばれたのが、かのランボルギーニだったのである。当時のランボルギーニといえば、すでに創業者のフェルッチオ・ランボルギーニはその経営から撤退し、新たなオーナー、ジョルジョ・アンリ・ロセッティの支配下に置かれていた時代。カウンタックやウラッコまでを生み出した天才的エンジニアのパオロ・スタンツァーニもランボルギーニを去り、さらにジャン・パオロ・ダラーラはそれ以前にデ・トマソへと転職、その後はランチアや道路建設機械の製造会社に籍を置いていた。

 ロセッティは新たなチーフ・エンジニアとしてフランコ・バラルディーニを指名し、さらにコンサルタントとしてダラーラを起用。一方ボディデザインはジョルジョト・ジウジアーロ率いるイタルデザインへと委託。M1の開発はこうした体制で始まったのである。M1が現在でも非常に魅力的なアピアランスとパフォーマンスを感じさせるモデルであるのも、この事情を知れば理解できよう。

 だが、この頃のランボルギーニには、同時にアメリカの軍用車メーカー、MTI(モビリティ・テクノロジー・インターナショナル)がコンセプトを決定した不整地用の4輪駆動車を設計、生産するというビジネスの打診もあった。しかしながら、この計画は軍から正式採用されることはなく、ランボルギーニの経営はここで一気に窮地に追い込まれることになってしまう。その影響が、今度はBMWのM1プロジェクトにも波及してしまったのだ。


山崎元裕 YAMAZAKI MOTOHIRO

AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員 /WCOTY(世界カーオブザイヤー)選考委員/ボッシュ・CDR(クラッシュ・データー・リトリーバル)

愛車
フォルクスワーゲン・ポロ
趣味
突然思いついて出かける「乗り鉄」
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