この記事をまとめると
■時代とともにトラックドライバーの業務も変化している
■昭和時代にはいまでは考えられないようなものを運ばされることがあった
■元トラックドライバーがかつて実際に運んだものを紹介
いまでは考えられない驚きの荷物!
企業コンプライアンスが叫ばれるようになり、よくも悪くも見た目やカタチにこだわるようになった現代日本。一見しただけではしっかりしているように見えるが、じつのところはそうでもない。中身ではなく見た目にこだわるようになったと感じるために正解だと思えないことも多々あるが、それも基本的に真面目さにこだわる日本人らしさだといえるのかもしれない。
そんな日本だが、昭和の時代はざっくばらんだった。よくいえば自由、悪くいえばいい加減だったのだ。そんな時代を生きてきた世代の人たちには、現代は少々生きづらいと感じていることだろう。
昭和の時代と現代を比較したとき、とくに衛生面に厳しくなったと感じられる。食品を筆頭に、細心の注意が求められるようになったのだ。物流の世界も同様に、運送業者が定めた規定のサイズ内できちんと梱包されていないような荷物は、取り扱ってくれなくなった。
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かくいう筆者は、過去にトラックドライバーだったという経験をもっている。大手運送会社の下請けとして励んでいた昭和後期に運んだことがある、意外な荷物について振り返ってみたい。
まずひとつめは、ボーリングの玉とピン。廃業したボーリング場から別のボーリング場への輸送を任されたのだが、段ボールケースに入れられていたのは、ボーリングのピンのみ。しかも蓋が閉まらない状態であったため、段ボールを重ねて積むということもできなかった。物量的には少なかったため平積みでも問題なかったのだが、気になるのは重量があるボーリングの玉。当たり前のことだがよく転がるようになっているボーリングの玉が、裸の状態で置かれていたのだ。予備のダンボールもなかったため、トラックの荷室に転がすしか運ぶ手段がなかったのである。
トラックには積荷を固定するための器具やレールが装備されているが、床に転がっているボーリングの玉を固定する手段は存在しなかった。荷締め用のレールとは高さが全然合わないことに加えて、積み重ねることができないダンボールによって固定ができなかったのだ。そのため、走行中はアクセルやブレーキ、そして右折や左折をするたびにボーリングの玉が自由に転がり、嫌な感触と音を私に与えてくれたのである。
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ふたつめは、死んだイノシシ。ハンターによって退治されたイノシシが、血だらけの状態でそのままパレットに載せられていたのである。首にロープを巻きつけ、そこに荷札のみが取り付けられただけであったイノシシの納品先は、想像どおりハンターの自宅。退治したものの自宅までの輸送手段がなかったのか、ただ単に運ぶのが嫌だったのか。その理由は定かではないが、そんな荷物まで大手運送会社が請けていたのである。
そのほかには荷室に収まらないほどの長さのパイプを運んだり、新設された公園まで滑り台を運んだり。トラックの箱が必ず当たってしまうほどの木々が道路上に容赦なく覆いかぶさる霊園までベンチを運んだり……。とにかく、いろんな経験をさせていただいた。きっと、現代では特殊な貨物として専門の業者が運ぶのだろうが、当時では普通の荷物に混じってそのようなゲテモノが当たり前のように置かれていたのだ。
現代ではダンボールケースにわずかな凹みが生じただけでも乱箱として扱われてしまい、受け取り拒否や貨物事故の対象とされてしまうようになったのだが、ボーリングの玉やイノシシなどが問題なく運べていた時代の方が生きやすい環境であったのは、いうまでもない。実際に運ばされた側からすればたまったものではないが、昭和の方が楽しくて刺激的だったことは、揺るぎない事実である。