この記事をまとめると
■1960年代の若者はレースに参戦しているクルマに憧れた
■1970年代になると自動車メーカー各社は大規模なワークス活動の中止を余儀なくされた
■1980年代になると再びメーカーは積極的にモータースポーツに挑戦するようになった
モータースポーツは憧れであり実験の場であった
「カーレースって、かっこいいよなぁ」。経済高度成長期の1960年代、日本の若者はクルマを使った競争に憧れをもった。いつの日か、サーキットを走るスポーツカーを愛車にしたいと、夢を見た。
自動車メーカーは、そうした消費者に向けてカーレースを自社の宣伝活動の一環として捉えるようになる。もともと、自動車メーカーにとってのカーレースは、一般車両の量産に向けた高速走行テストであり耐久テストであった。1960年代には、自社で高速走行テストができる場所を確保しているメーカーがまだ少なく、製造工場に隣接する走行確認路等を使用していたからだ。
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そうしたなかで、四輪事業の参入前にホンダが鈴鹿サーキットを建設したことは、当時の日本自動車産業界において衝撃的だったに違いない。
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1970年代に入るとカーレースの周辺状況は一変する。アメリカのマスキー法をきっかけに、自動車産業における公害(排ガス)対策が強化され、日系を含めた世界の自動車メーカーが小排気量エンジンを搭載する小型車の開発を迫られた。
そのため、コストが高く多くの排気ガスを放出するカーレースは社会動向に反するイメージが強まり、自動車メーカー各社は大規模なワークス活動の中止を余儀なくされた。
その後、しばらくの間は、富裕層やその子息などがプライベートチームを編成し、自らが参戦する、または1960年代に大手メーカーのワークスドライバーだった優秀な人材を雇い入れるなどした。そもそも、カーレースは富裕層の道楽として始まったものであり、自動車メーカーの関与がなくなれば、そうした姿に戻っていくことは当たり前だったと言える。
1980年代後半には、日本ではF1人気が急上昇。マクラーレン・ホンダや、ウイリアムズ・ホンダといった連携により、ホンダの企業イメージアップにつながった。その他、トヨタ、日産、マツダなどは国内外の耐久レースに参戦するようになる。
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この頃から、世間ではカーレースからモータースポーツへと表現が変わった。そして2025年現在、グローバルで環境規制が厳しくなるなか、政治的な思惑によってEVシフトは踊り場となり、日本が一環して主張してきたマルチパスウェイでの環境対応が世界的に再認識されるようになった。
そのなかで、スーパー耐久シリーズ・ST-Qクラスのように、新しい燃料やパワートレインの研究開発を目的として、自動車メーカー各社がモータースポーツをフル活用しているところだ。
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「走る実験室」「走る広告塔」「人材育成の場」などと評されることが多いモータースポーツ。自動車メーカーにとって、モータースポーツへの参戦目的や理由は、時代と共に変化している。