この記事をまとめると
■新虎通りは1923年の震災復興計画に端を発し2022年にようやく全線開通を果たした
■都市部の建設では用地買収の難航を立体道路制度の導入で打開した経緯がある
■依然として人口密集地では道路新設が困難で開通遅延は全国で繰り返される
いくら年月が経っても終わらない道路工事の謎
都市部の新しい道路工事がなかなか進まず、何十年という歳月を経てなお開通に至らない区間を残す事例がある。いつになると開通するのか。その先行きはなかなか見とおせない。
計画から完成まで長期に渡った一例として、2022年に全線で開通した「新虎通り」がある。
東京の神田佐久間町から有明へ抜ける大通りだが、その計画が閣議決定されたのは、1945年(昭和20年)の終戦後であった。敗戦後、日本はアメリカの統治下にあり、連合軍最高司令官であったダグラス・マッカーサーの名から「マッカーサー道路」という通称名が広まった。だが、実際には連合軍司令部による計画ではなかった。
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発端は、1923年(大正12年)に遡る。関東大震災からの復興にあわせて計画されたことがあった。しかしそのときは、帝国議会の反対で中止となっている。
それが再計画され、戦後から2022年まで、77年もの歳月を経て新虎通りはようやく開通した。そこまでの時間を要した理由は、東京のほぼ中心部を縦断する道筋で、首都・東京の中心部となればすでに商業地として繁栄し、道幅が40mもの大通りを整備するには土地の買収が容易でなかったためだ。
それを打開したのは、1989年に道路の上や地下を空間として利用することを可能にした立体道路制度による。商業地と道路が共存できるようになったのだ。
この制度が成立した背景に、バブル経済の影響もあったのではないか。バブル経済期、土地の価格は急上昇し、土地の転売のため強制的に立ち退きをさせられるような事態にまで発展した。それほど土地の有効活用が求められた時代だった。
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新虎通りほど大規模ではないが、拙宅近くでは、品川区~板橋区を結ぶ、通称「環状6.5道路」という南北に縦断する道路の開通に時間を要している。かなりの部分が事業に供され始めたが、まだ目黒区内で開通していない区間がある。
計画道路上に、個人の住宅があったのはもちろん、区立中学校もあり、容易に道路を通せる地域ではなかった。しかし、少子化による区立中学校の統廃合や、個人の土地の買収が相続などにより買収が徐々に進むことで、道路の形になりつつある。ただし見かけは道路がほぼできたようにみえても、開通できないわずかな区間がなお残されている。
1400万人を超える東京都ほど人口が密集していないとしても、日本は人の住める平地が限られ、人口密度の高さは世界195カ国中25位とされる。なおかつ都市部への人口集中が進むなか、すでに住宅や施設などがある場所に道路を新設するのは容易ならざることであるのだ。