フィアットに拒否られたフェラーリ幻のセダン! もしも発売されていたら……を想像したくなる「ピニン」とは (1/2ページ)

この記事をまとめると

■フェラーリにはかつて4ドアサルーンを生産する計画があった

■ピニンファリーナがデザインでかかわっていた

■当時フェラーリの親会社であったフィアットに生産計画を阻止されてしまった

幻の4ドアフェラーリがあった

 現在のフェラーリのプロダクションモデルには、イタリア語で純血を意味する「プロサングエ」のネーミングが与えられた4ドアモデルが存在する。そのスタイルはいかにもSUVといった印象だが、それをSUVではなく4ドアスポーツカーを表現するのは、いかにもフェラーリらしい。

 だがここで改めてフェラーリの歴史を振り返ってみると、それよりはるか以前に同社が4ドアモデルを誕生させようと計画した事実があることに気づく。ここで紹介するのはそのプロトタイプとして1980年にワンオフで生み出された、斬新なスタイルをもつモデルのストーリーだ。

 そのプロトタイプをデザインしたのは、1930年にバッティスタ・”ピニン”・ファリーナによって創立されて以降、さまざまな自動車メーカーに、美しく高性能なボディーデザインを提案、実際にそれを製作することにも携わったピニンファリーナにほかならなかった。1951年にフェラーリが本社を構えるマラネロと、ピニンファリーナが拠点としていたトリノの中間に位置するトルトナという街で、バッティスタの息子であるセルジョ・ピニンファリーナからの提案によって行われた両社による会議で、エンツォ・フェラーリはその後のフェラーリ車のデザインを、ピニンファリーナへと委ねることに合意。

 それはピニンファリーナがそれまでに残した実績と、彼らがもつさらなる可能性に期待した結果だった。ちなみにこの歴史的な会議をアレンジしたセルジョは、1961年には父バッティスタからその経営を受け継ぎ、ピニンファリーナの社長に就任する。

 前で触れた1980年という年は、ピニンファリーナが創立50周年を迎えたアニバーサリー・イヤーだった。以前からそれを記念するモデルを製作することを考えていたピニンファリーナが計画したのが、フェラーリにとっては初の試みとなる4ドアサルーンをデザインすることで、そのプランには意外なことにエンツォ・フェラーリも好意的な反応を見せた。

 当時のフェラーリは、すでにロードモデルに関してはフィアットの支配下にあり、エンツォには公用車として同社の最上級サルーンである「131」が与えられていた。それに大きな不満を抱いていたエンツォが、フェラーリから世界のライバルを超越する、より高級な4ドアサルーンを誕生させようとしたのは、まさに自然な成り行きでもあったのだ。


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山崎元裕 YAMAZAKI MOTOHIRO

AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員 /WCOTY(世界カーオブザイヤー)選考委員/ボッシュ・CDR(クラッシュ・データー・リトリーバル)

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