天賦の才でビジネスを拡大
このハッタリに見事に引っかかったのが、当時フォードの副社長だったリー・アイアコッカ。アレハンドロと同じくイタリア系移民の血を引く彼は、「欧州スーパーカーへの憧憬」と「フェラーリへの復讐心」を巧みにくすぐられたということ。その結果、デ・トマソは1969年にフォードとの全面提携を取り付けることに成功。そればかりか、安値で仕入れたギア社の株を、フォードに超高値で売りつけるなど、アレハンドロの策略はものの見事にハマったのでした。
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1971年になると、フォードの資金とネットワークを背景に、伝説の「パンテーラ」が誕生。リンカーン・マーキュリー・ディーラーで大々的に販売され、北米市場は熱狂したものの、大量生産のノウハウをもたないモデナの工場から出荷されたクルマは、文字どおりの「欠陥品」でした。雨漏り、電気系統のショート、ボディの歪みは日常茶飯事。ヘンリー・フォード2世が試乗した際、エンジンが始動しないことに激怒して、杖でボンネットを叩き壊したというエピソードが残されているほど。
それでもアレハンドロは悪びれることなく「だったらもっといいエンジンをよこせ」といい放ったとのこと。細かな品質管理よりも、動くこと、そしてなにより情熱的に見せるハッタリを優先する、アルゼンチンのおおらかな国民性が露呈したシーンといえるでしょう。
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その後にオイルショックが世界を襲うと、大排気量スポーツカーの時代が終焉を迎え、フォードが撤退を模索し始めると、アレハンドロの「世渡り」は最後の輝きを放ちました。彼は弱気になるどころか「撤退するなら契約違反で訴える」と巨頭を脅迫。泥沼を嫌ったフォードから巨額の和解金をむしり取ったうえで、不要となったパンテーラの製造権や近代化された工場を「タダ同然」で買い戻すという荒業を披露。
その後も彼はイタリア政府の公的救済資金(GEPI)をATM代わりに使い、マセラティやイノチェンティ、バイクのモト・グッツィを「1リラ」の元手で買収。それでも、高級車マセラティを大衆化させたビトゥルボ・シリーズをヒットさせ、同社の延命に成功しています。しかしながら、それも長続きすることなく、1990年代には品質不足によるブランドの失墜、さらに自身を襲った脳卒中により、アレハンドロの帝国は急速に求心力を失っていったのでした。
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彼がモデナの豪邸で息を引き取ったのは2003年、74歳の生涯でした。その際、最愛の妻だったイザベルの姿はベッドサイドにはなく、すでに彼女はアメリカへと去っていたのです。これを指して天罰と呼ぶ人もいるでしょうが、孤高の人、アレハンドロらしい最期ともいえるのではないでしょうか。
噂されている「P72」が放つ美しさは非常に魅力的ですが、かつてのアレハンドロ・デ・トマソという男が駆け抜けた足跡とは、あまりにも対照的。
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壮大なビジョンと思い込み、精度と不屈の野心と詰めの甘さが同居していた往時のデ・トマソは、美しくも、どこか危うい、まさにアルゼンチンというお国柄そのものの表徴のようでもある気がしてなりません。