愛され続けて50年以上! 日本を代表するトヨタ・カローラの足跡をたどる (1/3ページ)

「プラス100ccの余裕」でスタートダッシュに成功

 日本にマイカーという言葉が生まれたのは1950年代後半。もちろんマイカーブームの到来はまだ先の話だが、1958年にスバル360が登場。「てんとう虫」という愛称で呼ばれ、大ヒットした。以降、そのほかの軽自動車も続いていく。マイカーブームの下地を作ったのは、間違いなく軽自動車だった。

 トヨタは軽自動車には参画しなかった。一方で1955年には初代クラウン、1957年には初代コロナを登場させる。だがともに庶民にとっては高嶺の花。どちらかと言えばタクシー業界向けだったのだ。

 そこで1961年、700cc(のちに800cc)の水平対向2気筒エンジンを搭載する初代パブリカを登場させる。このパブリカをベースに開発されたのが、1967年に登場する「ヨタハチ」の愛称でいまも人気のトヨタ・スポーツ800である。パブリカは徹底的にコストダウンが図られ、39.8万円という低価格を実現した。

 だが、あまりにも質素だったせいか人気は低迷してしまう。自動車に「夢」が求められていた時代には、あまりにも実用的過ぎたのだろう。

 1964年に3代目となったコロナは1.5Lエンジンを搭載。パブリカは1966年に800ccに排気量アップする。この間を埋めるべく、この年登場したのが初代カローラだった。当初は2ドアセダンのみ、搭載エンジンは1077ccという微妙さ。だがこの排気量には理由があった。

 ライバルの日産から同年2月に初代サニーが登場。排気量は988cc、つまり1Lだったのだが、トヨタはこの情報をつかんでいたのだ。そこで急遽カローラの排気量アップを画策し、1077ccとして10月の東京モーターショーで発表され、翌月発売する。キャッチコピーは「プラス100ccの余裕」。これは「サニーより格上ですよ」と言っているようなものだった。そんな初代カローラはサニーを上まわる大ヒットとなり伝説の礎を築くことに成功する。

 1970年、ひと足先にモデルチェンジしたサニーは1.2Lエンジンを搭載。今度は「隣のクルマが小さく見えます」とやり返す。以降カローラとサニーは宿命のライバルとなり、しのぎを削ることで日本のモータリゼーションを牽引していく。

8カ月先んじて登場した宿命のライバル

1966年 日産サニー

 1966年2月に発表され、4月に販売を開始した日産サニー。トヨタはサニーが1Lであることを事前に察知、急遽排気量を1077ccに拡大して「プラス100ccの余裕」と謳った。以来長年にわたってカローラ宿命のライバルとなる。

2ドアクーペのスポーティな兄弟車

1968年 カローラ・スプリンター

 1968年登場した2ドアクーペの兄弟車。オート店(現ネッツ店)で扱われた。1970年登場の2代目からトヨタ・スプリンターと名乗った。セダンモデルも加えられ、レビンに相当するホットモデル「トレノ」も登場した。

1970年 2代目カローラ

初代の大ヒットからその哲学を踏襲

 エンジンは1.2Lとなり、同年1.4Lモデルも追加。さらに1972年にはクーペモデルに2T-G型1.6L DOHCエンジンを積む伝説のクルマ、レビン(TE27)を新設定した。

スポーツモデルの名車「レビン」も登場

 1972年、カローラのホットモデルとして、オーバーフェンダーを装着し115馬力の1.6L DOHCエンジンを積むカローラ・レビンが登場する。

1974年 3代目カローラ

ハッチバックなどバリエーション増加。排ガス対策に振りまわされたモデル

 2&4ドアセダン、2ドアハードトップに加え、1976年にはリフトバックも登場。エンジンは1.2L、1.4L、1.6Lを搭載し、新たに3速ATも設定する。ホットモデルのレビンは排ガス規制の影響を受け一時消滅。のちに排ガス対策を施し再登場している。

 1976年には3ドアのシューティングブレーク風「リフトバック」を設定。同様にスプリンターにも用意された。


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