フェラーリを名乗らない伝説のフェラーリ! 最初はエンジンの名称だった「ディーノ」とは (1/2ページ)

フェラーリを名乗らない伝説のフェラーリ! 最初はエンジンの名称だった「ディーノ」とは

この記事をまとめると

■「ディーノ」はF2の新レギュレーション用に新たに開発されたV6エンジンの名称だった

■ディーノV6エンジンを搭載したスポーツカーとして1968年に生産されたのがディーノ206GTだ

■1971年には排気量を2.4リッターまで拡大したディーノ246 GT/GTSが登場した

モータースポーツ直系エンジンを搭載するコンパクトスポーツカー

 フェラーリのラインアップに、新たにV型6気筒ターボエンジンに、ハイブリッドシステムを組み合わせた296GTB/GTSが誕生したことで、再びその存在がクローズアップされているのが、1960年代終盤に誕生したディーノ206GTと、その後継車である246GT/GTSの各モデルだ。

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ディーノ206GTのフロントスタイリング画像はこちら

 リヤフェンダーやそこに設けられるエアインテークからは、往年の250LMの姿さえ彷彿させる296シリーズのスタイルはやはり美しく、仮にフェラーリがここでディーノのブランドを復活させたとしても、それに異論を唱えるカスタマーは少なかったに違いない。

 そもそもフェラーリの歴史をさかのぼれば、のちに「ディーノ」とネーミングされるV型6気筒エンジンの開発は、じつに1956年にまで時間を巻き戻すことができる。翌1957年、世界選手権の懸るF2のレギュレーションが1.5リッター規定となったことを機に、新たなパワーユニットの開発が必要とされたのである。

 設計部門を率いたのはビットリオ・ヤーノ。生前エンツォ・フェラーリが残した言葉によれば、そのためにV型6気筒エンジンの採用を提案したのは、息子であるアルフレ・ディーノ・フェラーリであるというが、それはあくまでも初期のコンセプトに関してのことであろう。実際に彼が開発の現場に携わった事実はなく、また若くしてこの世を去ってしまったのだから。だが、ディーノの名はV型6気筒エンジンの名として、それからも長く親しまれていくのである。

エンツォ・フェラーリとその息子アルフレ・ディーノ・フェラーリ(左)画像はこちら

 1957年に誕生した156F2に始まる、ディーノV6ユニットは、ここから急速に進化していく。まず、1957年中には早くも排気量を2リッター、そして2.4リッターへと拡大。1958年にはバンク角を65度から60度に変更し、ここからも排気量を設定した派生型のエンジンが登場する。そして、この65度V型6気筒エンジンは、F1が120度V型6気筒とされるなかで、ディーノ106P/206Pに始まるスポーツカーレースへと新たな用途を見出すこととなり、206SP、206Sへと進化を続けた。

ディーノ206SPのフロントスタイリング画像はこちら

 スポーツカーレースでの活躍を見て、新しいロードカーへの興味を抱いたのはピニンファリーナだった。1965年のパリサロンで、彼らは206Sのシャシーに流麗な3シーターセンターハンドルの365SPスペチアーレを出品し、ロードカーのミッドシップ化を提案。エンンツォ・フェラーリは、すでにフィアットとの間で、ディーノV型6気筒エンジンをロード用に改良したモデルの委託生産計画に合意しており、その結果、フィアット・ディーノ・クーペと同スパイダーが誕生していた。

フィアット・ディーノ・スパイダーのサイドビュー画像はこちら

 ならば同様にディーノV6を用いたよりコンパクトなフェラーリを生産してもよいのではないかというのが、ピニンファリーナの考えであり、またそれを具現化したのが、1966年のトリノショーに出品されたディーノ・ベルリネッタ・コンペティツィオーネGTであり、ピニンファリーナに入社して間もないレオナルド・フィオラバンティを中心とするチームによって製作された3作目のプロトタイプ、ディーノGTだったのだ。ここに至ってようやくフェラーリは、ディーノの生産化を1968年に開始することを宣言する。

名前:
山崎元裕
肩書き:
AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員 /WCOTY(世界カーオブザイヤー)選考委員/ボッシュ・CDR(クラッシュ・データー・リトリーバル)
現在の愛車:
フォルクスワーゲン・ポロ
趣味:
突然思いついて出かける「乗り鉄」
好きな有名人:
蛯原友里

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