24時間でも大変なのに84時間! マツダがロータリーを世に知らしめるために選んだのは「3日半」走り続けの耐久レースだった (2/2ページ)

84時間走り切って総合4位でチェッカー!

 さて、わずか491cc×2ローターの排気量から、市販車の常用性能として110馬力(すぐ128馬力に)を確保したロータリーエンジンの高性能性だが、さらに強く市場にアピールするにはどうしたらよいか、その方法が問題だった。ここでマツダが着目したのは、レースへの参加、そこで実績を残すことがもっとも効果的な手法だ、と考えたのである。

 当時、日本のサーキットレースはまだ創生期にあり、決して熟成した環境ではなかったが、原点となる第1回日本グランプリの反響を見ても、レースでの活躍が市場に対して大きな影響力をおよぼすことは確認されていた。

 では、市場への性能訴求も背負ったコスモ・スポーツによるレース参戦に関して、「どういったレースが最適なのか?」という問題に行き着くことになる。マツダが下した判断は、1965年から西ドイツ・ニュルブルクリンク・サーキットで開催されていた「マラソン・デ・ラ・ルート」への参戦だった。

 このイベント、発端は1931年に始まる「リエージュ〜ローマ〜リエージュ」で、公道を使った長距離ラリーとして企画され、走行距離は3500km、場合によって5000kmを超す設定の年もあるイベントだった。このルートで長年続けられた後、1961年に「リエージュ〜ソフィア〜リエージュ」に変更された。ヨーロッパでは非常にタフで過酷なイベントとして知られ、1961年の大会を例に挙げると、走行時間は90時間、全参加台数85のうち完走はわずか8台という壮絶な戦いだった。

 そして1965年、この一般公道を使ったリエージュ〜ソフィア〜リエージュから、パーマネントサーキットのニュルブルクリンクにコースが移され、84時間(3日半)規模のレースとして開催されるようになっていた。マツダが革新的なパワーユニット、ロータリー・エンジンを積む新星コスモ・スポーツの実力立証の場として、この長距離耐久レースを選んだのは当然の帰結であり、高きハードルへの挑戦でもあった。

 マツダは、1968年8月20〜24日に開催されたマラソン・デ・ラ・ルート、ニュルブルクリンク84時間に、2台のコスモ・スポーツを送り込んでいた。1台はゼッケン18の古我信生/片山義美/片倉正美組の日本人トリオ、もう1台がゼッケン19のL.デルニエ/Y.デプレ/J.P.アッカーマン組の外国人トリオで、2台のコスモ・スポーツには耐久性を重視した軽いチューニングが施されていた。

 レースは、51台が出走(エントリーは59台)。1周28.265km(28.291kmのデータもあり)の複合コース(北コースと南コースをつないだレイアウト)を84時間走って優劣を競ったレースである。2台のコスモ・スポーツは、周回(時間)を重ねるにつれポジションを上げ、レース終盤にはトップ10圏内を走る快走を見せていた。この2台は、ゴールまであと数時間という段階では、トップ5を走るところまでポジションを上げていた。残念ながらゴールまであと2時間というところで、日本人トリオが操る18号車が、リヤタイヤを飛ばしてリタイアしてしまったが、残る1台が4位でゴール。

 1、2位は356周を走ったポルシェ911Eで、メンバーにはヘルベルト・リンゲ、ディエター・グレムサー、ウイリー・カウーゼン、ハンス・シュラーらが含まれていた。そして、ランチア・フルビア1.3HFが348周を走って3位でゴール。こちらもサンドロ・ムナーリらがステアリングを握る強豪チームだった。

 こうしたレースでの実績を持つ車両を相手に、ロータリー・エンジンを積むコスモ・スポーツは、初出場ながら344周(実際は345周だったがペナルティで1周減算)を走り切ってみごとに4位で完走。一躍、ヨーロッパでマツダとロータリー・エンジンの名を高めることになった。

 完走は26台。スターリング・モス/イネス・アイルランドらが操ったランチア・フルビア、BMW2002、ルノーR8ゴルディーニ、そして並み居るポルシェ勢を相手に総合4位で84時間を走り切ったコスモ・スポーツの成果は大健闘だった。

 マツダは、このマラソン・デ・ラ・ルートを皮切りに、続くロータリーエンジン搭載の第2弾、ファミリア・ロータリークーペがスパ24時間で善戦する活躍を見せることになる。

 なお、ニュルブルクリンクでのマラソン・デ・ラ・ルートは、1965年から1971年まで7回開催され、当初は84時間規模だったが、最終年となった1971年だけは96時間(4日間)に延長されて開催された経緯がある。


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