ポルシェもメルセデスもトヨタも日産もガチで頂点を目指した! 「グループC」こそモータースポーツの黄金期で異論なし (1/2ページ)

この記事をまとめると

■1982年からFIAが管轄する世界耐久選手権はグループC規定によって争われた

■グループCカー規定から性能規定として使える燃料の量が制限されるようになった

■世界の名だたる自動車メーカーがグループC車両で覇権を争ったが1992年に終了した

モータースポーツシーンにグループCが誕生した背景とは

 1982年から1992年までの11シーズン、スポーツカーによって争われる世界選手権に新たなカテゴリー、グループC規定が誕生した。スポーツカーによるレース(とくに耐久レース)は歴史的に古く、FIAが管轄する世界選手権としては1953年に始まっているが、当然ながら第2次世界大戦以前にもスポーツカーレースは存在した。

 そもそもスポーツカーは、量産型実用車から速く走ることに特化させて生まれたモデルで、世界初のスポーツカーは1913年製のイスパノ・スイーザ「アルフォンソXIII(3.5リッター)」型とされている。市販車で争われていた自動車レースにスポーツカーが参戦したのは当然の成り行きで、1923年に第1回大会が開かれたル・マン24時間にも登場。栄えある第1回大会の優勝車両となったシュナール・エ・ワルカーも車名に「スポーツ」を名乗っていた。

 スタイリッシュで動力性能に優れたスポーツカーが、市場で人気となったことはごく自然の成り行きで、スピードに対する人間の憧れを具現化したスポーツカーは、レースによって優劣を競うことで、生産メーカーの技術力が世に問われるかたちになっていた。このため、スポーツカーレースには、ドライバーでなく生産メーカーにタイトルがかけられたのも当然のことだった。それが一元化され世界レベルとなったシリーズが、1953年に始まる世界スポーツカー選手権(WSC)だった。

 このシリーズは、車両規定の変更や時代の流れとともにシリーズ名称も変え、1982年にグループCカー規定による世界耐久選手権(WEC)が発足した。一見すると、車両規定がグループCカーになっただけと受け取ることもできるのだが、それまでグループ4/5/6規定で続いてきたスポーツカー/GTカー規定によるレースとは根本から大きく異なる点をひとつ備えていた。

 それまでの車両規定は、車両サイズや重量、排気量や生産台数などを基準に決められてきたが、グループCカー規定となって初めて性能制限が設けられた。どう制限したのかというと、競技中に使える燃料量を規制したのである。エンジン性能に制限を設ける、これはモーターレーシング史上初の試みとなっていた。速く走るためにはエンジン出力は高いほど有利になる。そのためには可能な限り多くの燃料を供給して燃焼できれば、そのぶんだけ大きな出力を取り出すことができ、結果、速く走れるという単純明快なプロセスが存在した。しかし、グループCカー規定の発足に当たり、燃料量に制限を加え、燃焼効率を重視する方向に転換したのである。

 実際、グループCカー規定には、排気量や過給機の有無に関する制限はない。エンジンについては何でも自由、ただし、使える燃料量は規制しますよ、という規定だった。こうした考え方が生まれた背景には、1970年代に世界的に大きな問題となった石油ショックや排気ガスによる環境汚染がかかわっていた。それにしても、いま考えても非常に合理的かつ理路整然とした発想で、結果的にこの規定は、エンジンの燃焼技術進化に大きく貢献した。

 ところで、とりあえずグループCカーの車両規定について簡単に触れておくと、全長×全幅×全高は4800mm以下×2000mm以下×1000~1100mm、最低車重は800kg以上(施行当初)というもので、肝心の使用燃料量は500kmレースで323リットル(1985年から275リットル)、500マイルレースで494リットル(1985年から420リットル)、1000kmレースで600リットル(1985年から510リットル)、24時間レースで2550リットルと規定されていた。


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