円高の苦境と技術者たちを突き動かした「901活動」
このR32誕生の背景には、日産が組織の存亡をかけて挑んだ、壮絶なドラマがあった。元日産の技術者である伊藤修令氏は、1980年代半ばの凄まじい「量から質への転換期」をこう証言する。
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当時の日本車は、安さと燃費のよさを武器にアメリカ市場で躍進していたが、それがゆえに激しい貿易摩擦を生み、輸出の自主規制という重い足枷を嵌められていた。さらに急激な円高が会社を直撃し、ただ大量生産して輸出するビジネスモデルは崩壊しつつあった。
欧州の販売現場からは「メルセデス・ベンツやBMWと対等に戦えるクルマが欲しい」という声が上がっていたが、当時の技術力では「そんなことできるわけがない」と突き放すのが現実だった。他社を見渡せば、トヨタはセルシオ、ホンダはNSXといった高付加価値なフラッグシップの開発へ舵を切っていく。日産もまた、国内市場で生き残るために、これまでにない高い付加価値をもったクルマ作りを迫られていた。
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日産の市場シェアは1976年頃から30%を割り込み、右肩下がりが続いていた。この危機に、1985年に就任した久米 豊社長のもとで大規模な風土改革が断行される。「お客さまが本当に満足する商品を作り、そのために開発手法も会社組織も変える」。この強力なトップダウンと、現場の「世界のトップを見返してやる」という執念が結びつき、1986年の暮れ、伝説の「901委員会」が発足する。1990年代までに技術で世界一を目指すという、いわゆる「901活動」の始まりである。
じつは、日産のシャシー設計部門には古くからの「悔しさ」があった。1970年代、欧州に輸出した日産車は、速度無制限のアウトバーンにおいて「直進安定性がまるでお話にならない」と酷評されていたのだ。現場は1978年の時点で「高速コンセプト委員会」を立ち上げ、250km/hで巡航できる足まわりを必死に研究していた。しかし、当時はその最先端の研究を市販車の足まわり(セミトレーリングアーム式サスペンション)の抜本的な刷新へと繋げる組織のパワーがなく、ジャーナリストからも他社との遅れを厳しく叩かれ続ける日々が続いていた。
長い間、研究のままで眠っていた「アウトバーンで世界と戦う」という技術者たちの意地と、会社を挙げての風土改革。このふたつの奔流が1985年からのR32開発においてついにひとつとなり、あの圧倒的なGT-Rの覚醒へと繋がっていったのである。
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