この記事をまとめると
■高速道路ができた1963年に最高速度は100km/hと設定された
■当時のクルマとタイヤのスペック的に100km/h程度の上限が限界だった
■現代のクルマの性能に合わせた法整備が必要だ
その時代に合わせた柔軟な対応が求められる
日本に高速道路ができたのは、1963年(昭和38年)の名神高速道路・栗東~尼崎間(71.7km)が最初だ。このとき、最高速度が時速100kmと定められた。ではなぜ、100km/hだったのか?
栗東~尼崎間には、100km/hの区間と80km/hの区間があった。道路の設計速度は、場所によって120~80km/hの幅があったが、120km/h区間でも最高速度は100km/hに抑えられた。
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その理由について、確かな資料は見当たらない。ただ、考えられる背景はある。
1960年代、国内の道路の多くは、国道であっても未舗装だった。都市部が近づくと舗装されるようになるが、未舗装路も走る可能性が高かった。当時の様子は、のちにトヨタのレーシングドライバーとなる浮谷東次郎(23歳で他界)が、15歳のとき(1957年)、住まいの千葉県市川から大阪までバイクで旅をした様子を伝える「がむしゃら1500キロ」という本に、布で口と鼻を覆わなければ埃が立って苦労したとの記載がある。
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未舗装路を高速で走るのは困難だ。市販されるクルマは、未舗装路でも確実に走れる性能が求められた。逆に、高速走行は苦手であっただろう。じつは、栗東~尼崎間の開通後、100km/hで走行するとオーバーヒートする車種もあったと伝えられる。エンジン性能もサスペンション性能も、まだ高速走行に適合できていなかった。
また、当時のバイアス構造のタイヤも、現在のラジアル構造のタイヤのように操縦安定性や路面のグリップは高くなかった。そうしたクルマで100km/hで走るには、それなりの運転技量を必要とした。まっすぐ走ることさえ、高速では神経を使った。
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名神高速道路建設の顧問には、ドイツのアウトバーンを手掛けた技師を迎えていたが、速度無制限のアウトバーンと異なり、日本では最高速度が設けられた。
欧米は馬車の時代があり、車両が走るという概念があった。かたや日本は、江戸時代から街道が整備されてはいたが、馬車の時代はなく、大八車や荷車を使い、人は歩くか、人が担ぐ駕籠に乗って移動した。街道筋の道路は、砂や砂利を敷き詰めた未舗装だった。当時来日した外国人の記録などにもそうした道路の様子が記述されている。ほぼそのまま昭和初期まで、日本の道路はあまり変わらなかったようだ。
クルマやタイヤの性能向上とともに、速度制限を再検討する必要はある。すでに120km/hに上限を高めた高速道路区間がある。
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一方、クルマとタイヤの性能向上に頼り切り、漫然とした運転の様子を見かけることもある。さまざまな性格や運転技量の人々が一緒に利用する交通のなかで、ある程度の速度制限は必要だろう。
アウトバーンのあるドイツでも、すべてが速度無制限ではない。また、市街地や山間部には速度制限があり、標識で明示された数値通りに速度を守らないと、道路を飛び出しかねない箇所もある。日本のおおざっぱな制限速度意識では、事故を起こしかねない厳格さだ。
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自己責任と、公的責任とが明確に認識されている地域や国ならではの、速度に対する意識の違いも考慮する必要がある。