速さだけが価値じゃない
第二の存在意義は「安全性」、それもペダル踏み間違い事故に対する物理的な抑止力だ。
昨今、高齢ドライバーによるアクセルとブレーキの踏み間違い事故が社会問題化している。各メーカーはセンサーやカメラを用いた踏み間違い衝突防止装置を必死に開発・装着しているが、これらはすべて「電子的制御」に依存した対策である。
一方、MT車の構造を思い出してほしい。MT車でクルマを発進させるためには、「クラッチを踏む」「シフトレバーをローに入れる」「半クラッチを保ちながらアクセルをじわりと踏む」という複合的な操作が絶対に必要となる。パニックに陥ったドライバーが、仮にブレーキと間違えてアクセルを床まで踏み抜いたとしても、クラッチがつながっていなければエンジンがけたたましい咆哮を上げるだけで、車体は1mmも前進しない。
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つまりMT車には「人間の認知・操作エラーを物理機構そのものが受け付けない」という、原始的だが確実なフェイルセーフが組み込まれているのだ。これは、どれほど高価な電子制御安全デバイスを積み重ねても敵わない、機械構造そのものがもつ絶対的な防壁である。
そしてMTの第三の意義。それは、MTが「実用のための道具」から「成熟した大人の嗜好品・工芸品」へと昇華した点にある。
考えてもみてほしい。時刻を正確に知るためだけであれば、数千円のクオーツ時計やスマートフォン、スマートウォッチのほうが、数千万円級の機械式時計よりも圧倒的に正確で、高機能で、なおかつ安価だ。それなのになぜ、世界の富裕層や時計好きはわざわざゼンマイを巻き、歯車が噛み合う機械式時計に大金を払うのか?
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理由はきわめて明快である。「無駄のなかにこそ宿る美」に、価値を見いだしているからだ。そしてクルマもまったく同じステージに到達した。もはや「速く走るため」にMTを選ぶ時代は終わった。0-100km/h加速のタイムを競うなら、ローンチコントロールを備えた最新DCTやデュアルモーターのEVに、MT車が敵うはずもない。
しかし、速さを競うラップタイム競争から降りたとき、残るのは「内燃機関の爆発の鼓動を、手のひらと足の裏でダイレクトに感じながら走る」という、贅沢な時間そのものである。
安楽な移動を求める大衆が2ペダルや自動運転へ流れる一方で、「不便さを愛でる余裕をもつ者たち」にとって、節度感あるゲートに吸い込まれるMTのシフトフィールは、工芸品としての味わいすら感じるものになった。ポルシェなどがいまなお高価格帯のスポーツモデルにMTを残し、それが瞬く間に完売する理由は、ここにあるのだ。
かつてカメラがフィルムからデジタルへ移行し、さらにスマートフォンの全自動撮影へと(ある意味)進化しても、一部の好事家がライカのレンジファインダーを手動で合わせる悦びを手放さないように。アナログレコードに針を落とし、パチパチというノイズとともに音楽に耳を傾ける時間がいま、再評価されているように。
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MT車が生き残る意味とは、効率至上主義が全盛となった現代社会において、「人間が機械と対話し、五感を研ぎ澄ます領域」を最後まで守り抜くことにある。
便利さの追求は、もちろん素晴らしいことだ。それが、我々人類を進化させてきた。だが人間という生き物は、少しの手間と不便さを感じなければ、対象に深い愛着をもてないようにもできている。
だからこそ、MT車は絶滅しない。いや、MT車を作り続けるということは、落語と同様に「人間の業の肯定」にほかならないため、決して絶滅させてはならないのだ。