レトロフューチャー感のあるボディがエモすぎる! 「トヨペットレーサー」って一体ナニモノ?

この記事をまとめると

■1951年(昭和26年)にトヨペットレーサーが誕生した

■販売会社の大阪トヨタ自動車と愛知トヨタ自動車がSD型乗用車をベースに開発

■公営ギャンブルのオートレースに出場し商品力をアピールするために使われた

日本のモータースポーツ史に欠かせない名車

 トヨペットレーサーという名の競技車両がつくられたのは、1951年(昭和26年)のことだ。

 これを構想したのは、トヨタ自動車の創業者である豊田喜一郎である。狙いは、戦後、1日も早く小型で高出力、かつ燃費のよいエンジンを開発し、優れた小型車を世に出すためであったとされる。

 ただし、開発を主導したのはトヨタ自動車の販売会社であった。

 トヨタは、戦後の不況を脱出するため、1950年(昭和25年)に、開発と製造を行うトヨタ自動車工業と、その新車を販売するトヨタ自動車販売に会社を分離した。そして競技車両の開発を、苦境にあった自工ではなく自販での活動というかたちをとった。このため、競技車の名称がトヨタレーサーではなく、トヨタ車の愛称として使われていたトヨペットを用いたのであった。

 トヨペットレーサー製作に際し基になったのは、1949年に生産を開始したSD型乗用車だ。これは、SB型トラックのシャシーに乗用車の車体を載せ、営業車向けとして廉価に仕上げた乗用車である。トラックがもとであるため、頑丈な作りでもあった。直列4気筒995のサイドバルブエンジンを搭載し、出力は27馬力である。

 トヨタが量産市販乗用車として本格的に売り出す、クラウン誕生の前の時代のことだ。

 結果、大阪トヨタ自動車と、愛知トヨタ自動車により、2台のトヨペットレーサーが製作された。ただしこの2台は、見た目の外観が異なる。理由は、手作りであったことと、造形が各社に任されたためだ。

 出場したのは、当時行われていた4輪車によるオートレースである。

 オートレースは公営ギャンブルで、モータースポーツとしてのレースとは異なる。だが、当時の日本では、小型自動車競走法という法律の下で、自動車の競技はオートレースとして開催が認められていたのである。

 自動車開発における競技との関りについては、これとは別に、ホンダを創業した本田宗一郎も、まだ修行中に働いた東京のアート商会で、カーチス号というレース車両の製作に加わっている。のちに、自ら創業して本田技研工業を設立後、はやり技術の向上を目指して2輪による英国マン島TTレースへの参戦、また、その後4輪でのF1参戦も決意する。

 現代のモータースポーツは、もちろん先端技術の競争が盛んだが、1950~60年代当時の日本の自動車メーカーにとって、世界市場で競合する欧米の自動車と性能も商品性も圧倒的な差があり、一刻も早く巻き返すには、競技の場が何より明確な成果を勝ち負けで確認でき、事業を発展させるため必死の思いで取り組んでいたのである。

 同様のことは、戦時下のドイツで、メルセデス・ベンツとアウトウニオンが雌雄を決する戦いを繰り広げた歴史にも見られる。

 単に競技による勝ち負けに終わらず、勝敗が先の社運を左右する時代がかつてあったのである。


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御堀直嗣 MIHORI NAOTSUGU

フリーランスライター

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乗馬、読書
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