【70年代のF1マシン】ワールドチャンピオン自らの名を冠したマシンたち (2/2ページ)

苦戦の末に悲劇の終末を迎えた悲運のマシン

1975 Hill GH1・Ford-Cosworth DFV

 1962年と68年、それぞれBRMとロータスを駆って2度のワールドチャンピオンに輝いたグラハム・ヒルが、エンバシー煙草のスポンサードを受けて自らのチームを立ち上げたのは1973年のことだった。活動初年度はシャドウからDN1の供給を受け、翌74年からはローラに専用マシンとしてオーダーしたT370で戦っている。

そして75年シーズンには自らの名を冠したヒルGH1を登場させている。ただしGH1はT370と同様にアンディ・スモールマンが設計しローラで製作されていたから(ローラ内での呼称はT371だった)コンストラクターとしてヒル(チーム名はエンバシー・ヒル)を名乗っているもののローラ/ヒルと表記されることも少なくなかった。

1975_hill-gh1

 いずれにしてもGH1/T371は、ヒルの期待ほどに速くはならず、得意としていたモナコGPでもDNQに終わり、ヒルは失意のうちに引退し、オーナー監督に専念することになった。

とは言うものの前年のT370は1度きりの6位入賞がシーズンを通じてのベストリザルトだったが、GH1/T371ではアラン・ジョーンズがドイツで5位入賞を果たしてT370を上まわり、何よりもヒルの後釜としてエースに抜擢したトニー・ブライズが参戦2戦目のスウェーデンで6位入賞を果たしており、前途洋洋たるものが、少なくともヒルら関係者の胸の内にはあったはずだ。

ところがシーズン終了後、翌76年用に製作したニューマシン、GH2のテストにフランスまで足を伸ばしたが、その帰路、ヒル自身が操縦し、チームの主要メンバーが乗り込んだ軽飛行機が濃霧のなかで墜落するアクシデントが発生。オーナー監督のヒルと新エースのブライズが命を落とす結果となり、チーム活動もそのまま終焉を迎えることになった。まさに苦労の末に悲劇の終末を迎えた格好だった。

写真は75年のオーストリアGP。渾身のドライビングを見せたトニー・ブライズの雨中の走り。なお、英国のサマセット(ヒースロー空港から西約80マイル)にあるハインズ国際自動車博物館には、赤いストライプが映えるエンバシー・カラーのT370が収蔵展示されている。撮影はしたものの掲載はご法度とのことで、興味ある読者は、ぜひ現地でご覧頂きたい。

  

ピケやセナが憧れたブラジルのヒーローの名を冠したマシン

1975 Copersucar-Fittipaldi FD03・Ford-Cosworth DFV
1976 Fittipaldi FD04・Ford Cosworth DFV

 日本人ドライバーとして初めてF1GPにレギュラー参戦した中嶋悟・現NAKAJIMA RACING総監督が後進に道を開き、続いて鈴木亜久里・現ARTAプロデューサーや片山右京・現チームUKYO代表が後に続いたように、ブラジルでも先駆者が登場し、後を追うように若きヒーローが続出した。

 若きヒーローはネルソン・ピケでありアイルトン・セナだが、先駆者とは72年に最年少記録を塗り替えてワールドチャンピオンに輝いたエマーソン・フィッティパルディだ。1975_copersucar-fittipaldi

 エマーソンには3歳年上の実兄、ウイルソンがいて、彼もまたF1GPに参戦していたが、弟ほど輝かしい記録を残す前に現役を引退、74年にはブラジル初のF1チーム、コパスカー・フィッティパルディを誕生させている。ちなみに、コパスカーとは砂糖やアルコール(エタノール)を製造するブラジルの企業体でチームのタイトルスポンサーでもあった。1975_copersucar-fittipaldi

 それはともかく、コパスカー・フィッティパルディのデビューシーズンは苦悩の連続となった。ウイルソンのシングルカー・エントリー(イタリアGPではウィルソンの代役としてアルトゥーロ・メルツァリオがドライブ)だったが、デビューレースとなったアルゼンチンGPでは決勝中に大クラッシュを演じてFD01の1号機が全損。

ホームGPとなる第2戦のブラジルを前にFD02と命名した2号機を製作する羽目になり、結局このシーズンは、最終戦のアメリカGPでの10位がベストリザルトという有様だった。1976_fittipaldi-fd

 翌76年にはウイルソンが引退してオーナー監督に専念し、代わりに弟のエマーソンがマクラーレンから移籍してエースに迎えられ、さらにブラジル人で若手ドライバーのインゴ・ホフマンをナンバー2に据えるなど体制を充実。エマーソンが数回の入賞を重ねるなど調子も上向きとなっていった。1976_fittipaldi-fd

パドック内に停めたトランポ脇のテント下で整備中の2台のFD03と(ともに#30番をつけていて、いずれか一方が本番車でもう一方がスペアカーと思われるが詳細は不明)、ウイルソンのドライブでコーナーを行く#30のFD03は75年、ニュルブルクリンクで行われたドイツGPで撮影。

サーティースとヒル、そしてフィッティパルディの3台は、名ドライバーが必ずしも名監督とならない好例だが、奇しくも3台が唯一競演した75年に本場でF1GPを取材(観戦)できたのは貴重な経験だ。

 一方、真正面(富士スピードウェイ・広報部提供)とサイドビュー、2枚のカットはエマーソンがドライブする#30のFD04で、76年に富士で行われたF1世界選手権inジャパンでのひとコマ。


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