自分でも買える市販車ベースだから爆発的に盛り上がった! レーシングドライバーが語る日本のツーリングカーレースの歴史と提案 (2/3ページ)

見た目はノーマルでも中身は別物のように速かったグループA

 次にツーリングカーレースが栄華を誇るのは、1981年に制定された「グループAカテゴリー(以下Gr.A)」によるレースだ。Gr.Aとは過去に連続する12カ月間、5000台以上が生産された4座席以上の車両がホモロゲーションの対象になるとされ、自動車メーカーが申請することでレース参戦が可能になる。

 年間5000台以上といえばかなり多くの台数といえ、それは多くのユーザーにとって身近なクルマによるレースになると考えられた。その敷居は高く、高性能だけを売りにしたようなスーパーカーや2座席スポーツカーなどは除外されたため、一般的な乗用車クラスの多くの車両がエントリー対象となった。

 国内では1985年に富士スピードウェイで初開催された「インターTEC」が今でも語り草となっている。レーシングカーの前座ではなく、正にメインイベントとしてグループAツーリングカーによるレースが国際規格として開催されたのだ。

 海外から有力チームが招聘され国内ワークスチームとの対決が注目を集めた。とくにボルボは240ターボを投入。レースカーとは思えない角張ったデザインのマシンがレースを席巻したことから、「フライングブロック(空飛ぶレンガ)」の異名を証明してみせたのだった。(写真はヨーロッパレースに参戦したもの)

 このレースには僕自身も三菱自動車からワークス仕様のスタリオン・ターボで参戦していた。三菱が国内で初めて仕上げたグループAマシンで、基本性能の高さが奏功し予選3〜4位。決勝も国内勢最高位の4位入賞を果たした。

 Gr.Aはその後も人気カテゴリーとして成長を続け、ここで勝ちたい日産がR32型としてスカイラインGT-Rを復活させ、AWDシステムとハイパワーエンジンを搭載し無敵に時代を築き上げる。だがあまりに強すぎたこととバブル経済崩壊の影響から他メーカーの撤退が相次ぎ、Gr.Aは1993年に幕を閉じてしまった。

 その後はグループN2規定に従うニューツーリングカーやN1規定で競われるN1耐久など、カテゴリーが細分化されていく。Gr.A時代後半、すでに年間5000台をクリアする条件は2500台にまで緩和されたが、それでもR32型GT-Rを打ち負かせるようなクルマにとっては厳しい条件となっていて、GT-Rは闘う土俵自体が奪われてしまうような結果となった。


中谷明彦 NAKAYA AKIHIKO

レーシングドライバー/2023-2024日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員

中谷明彦
愛車
マツダCX-5 AWD
趣味
海外巡り
好きな有名人
クリント・イーストウッド、ニキ・ラウダ

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