「ハチロクはドライバーを育てるクルマ!」マンガか映画のセリフのような言葉の真相とは? (1/2ページ)

この記事をまとめると

■軽量コンパクトなFRは昔でも練習マシンとして貴重な存在だった

■程よいパワーで燃費もよく、タイヤも小さいのでランニングコストが非常に安かった

■AE86と性格が似たようなマシンは現代にもあるが、当時と比べればどうしても高額だ

「AE86はドライバーを育てるクルマ!」の真意を考察する

 この秋、新しいトヨタ86(ZN8)・スバルBRZ(ZD8)がデビューしたにもかかわらず、いまだに人気のあるAE86。

「AE86はドライバーを育てるクルマ」などといわれ、ドリキン土屋圭市さんをはじめ、いまの50代60代で若き日にモータースポーツに夢中になったドライバーは、このAE86で腕を磨いたという人も相当多い。

 AE86がデビューした1983年頃は、先代のレビン・トレノ=TE71からの乗り換え組や、最後のFRスターレット(KP61)からのステップアップ、そしてAE86での走り屋デビューなどが目立ったが、80年代後半になると、気がつけばライトウエイトFRがAE86だけになっていたことと、ドリキン土屋圭市の知名度・人気上昇に合わせて、AE86の注目度がアップ。そしてマンガ「イニシャルD」のヒットで、再びAE86ブームが起きるわけだが、クルマ好き、走り好きをたくさん育てたという意味では、たしかにAE86の功績は大きい。

 ではなぜ、AE86は多くの走り屋を育てられたのか。

 まず時代がよかった。1973年からのオイルショックも一段落し、そしてスーパーカーエイジたちがちょうど免許を取って、自分でハンドルを握り出す時代にAE86が存在した。そして大衆車のFF化が一気に進むなか、FRをキープしたのは非常に大きい(80年代前半のFF車は、基本的にアンダーステアが強いだけで、スポーツ走行にはかなり不向きだった)。

 次にパッケージがよかった。FRであることはもちろんのこと、車重が900~940kgと軽かったのがよかった。エンジンも4バルブになった4A-Gとはいっても、グロスでたったの130馬力。走り屋入門者には、速すぎず遅すぎず、ちょうど扱いやすいパワーだった。

 それでいて、ワインディングではコンパクトなボディと軽さを活かして、スカイラインなど2リッタークラスのマシンとも互角以上に戦えたのは大きな魅力。

 リヤサスは、5リンクリジットで限界は低かったが、振り回したりドリフとしたりするのにはむしろ都合がよかったぐらい。タイヤサイズが13インチだったので、タイヤと相談しながら走る感覚も自然に身についた。

 そしてコストが安かった!

 AE86の新車はGTで130万円、GT APEXでも160万円。1987年のモデルチェンジでFFのAE92にバトンタッチしたあとは、新車時の半額ぐらいでいくらでもAE86が手に入った。40~50万円の中古車なら、大学生でもバイトして購入できたし、LSDを組んで、ステアリングを交換して、ブレーキパッドを変えるだけで、もういっぱしの走り屋仕様のできあがり。

 AE86だけで生産台数は約10万台。ベースのカローラは当時の世界最多量産車。タマ数は多いしパーツは困らない。ガソリンはレギュラーだし、飛ばしてもリッター10kmは走るし、タイヤも13インチで大して減らないし、ぶつけても解体屋に行けばパーツがある。これが練習車には最適。

 ローンをたっぷり抱えて、ピカピカのクルマが当たり前、なんて状況では、なかなかガンガン走れないが、当時のAE86は少々傷がついているぐらいはご愛敬。峠や埠頭、造成地や川原など、夜な夜な人気のないところに出かけていって、練習する相棒がAE86だった。

 もうひとつ、AE86が万能選手だったのも大きな要素。モータースポーツでも、レース、ジムカーナ、ラリー、ダートラと全部の分野でAE86は大活躍。とくにレースでは、グループAからフレッシュマンレースまで、ハコのレースではAE86抜きでは語れないほど。ドリキン土屋圭市さんがAE86で6連勝して注目を集めたのも富士フレッシュマンレースだった。

 また、3ドアのAE86なら、後部座席を倒して、レーシングカートを積むこともできたし、休日遊びに行くときも、大人4人が乗れて、スキーにもキャンプにもこれ一台で済ませられたというのも、AE86が愛された部分。


藤田竜太 FUJITA RYUTA

モータリングライター

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日産スカイラインGT-R(R32)/ユーノス・ロードスター(NA6)
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