男の72回ローンで手に入れた1970年式ポルシェ911S「プラレール号」! モータージャーナリストの愛車インプレ【松村 透編】 (2/3ページ)

決死の「オトコの60回ローン」で手に入れた1台目のナローポルシェ。しかし……

■決死の「オトコの60回ローン」で手に入れた1台目のナローポルシェ

 どうにかこうにか無事に高校を卒業し、20代に突入しても911が欲しいという想いは変わることはありませんでした。むしろ過熱する一方だったように思います。ポルシェ特集の本を見つけたら即購入、カーグラフィックTVのポルシェ特集はビデオテープがデッキに絡んでしまうまでリピート。そのうちオンエア中のBGMが知りたくなり、制作会社に問い合わせて曲リストを送ってもらう始末です。さらには自宅から自転車に乗って片道3時間かけてポルシェのディーラーへ行き、夜な夜な外から眺めたり、ささやかなポルシェ貯金をしたり……。ここまでくるともはやただのヘ○タイです。

 そして24才になったある日「思い切って俺もポルシェを買おう」と一大決心をします。1990年代後半、当時はナローポルシェやタイプ930であれば200万円台の売り物も珍しくありませんでした。その後のメンテナンス費用はさておき「買うだけであれば」、20代の若者でもオトコの60回ローンを組むことでどうにかなった時代でした。当初はタイプ930を狙っていたのですが、たまたまこのときは良い出会いがなく……ちょうどインターネットが普及しはじめていて、ポルシェ関連のML(メーリングリスト)で知り合った方の紹介でナローポルシェの売り物を見せてもらえることになったのです。

 仕事帰りにお邪魔したショップには、周囲の暗闇のなか、ショールームの蛍光灯の柔らかい明かりに照らされる美しい水色のナローポルシェが佇んでいました。一目惚れです。一応、試乗もさせてもらったのですが、コンディションの善し悪しなんて分かりませんし、こっちは操作に手一杯でそれどころではありません。忘れもしない、ガルフブルーよりも少しだけ濃い水色のボディカラーをまとった1973年式ポルシェ911S。その場で60回ローンを組んででも買いたいという意思を伝えました。

 どうにか60回ローンの審査をクリアし、納車日を迎えたのです。それは8月の終わり、熱帯夜確実の蒸し暑い夜でした。原体験から苦節6年、ついにポルシェ911を自由に乗り回して良い立場となったはずなのに……。帰宅してエンジンを切るまで、そんなことを考える余裕はこれっぽっちもありませんでした。

■こちらはプラレール号の現在の姿。折を見て「Carerra」のデカールを貼る予定

 こうして夢にまで見た「ポルシェのある暮らし」がスタートを切りました。しかし……いざふたを開けてみると、それは喜びよりも圧倒的に苦悩と苦痛に満ちた日だったのです。

 当時は実家暮らしで(だから無茶ができたのですが)、自宅駐車場にはガレージはなく、とりあえずボディカバーを被せて保管。しかし、週末に乗ろうとボディカバーをはいでみるたびに、少しずつ、そして確実に塗装面のクラックが広がっていることが分かるのです。大切な愛車が日に日に、そして急速に劣化していくように映り、これは焦りました。めでたく60回ローンを完済する頃にはボディが錆びだらけになってるんじゃないか……。そして、エンジンを含めたコンディションがどうなのか、これからどれくらいの福沢諭吉に羽が生えるのか……。そもそも自分はまともに動かせるのか? 不安は増すばかり。そしていつしか愛車に乗ることが喜びではなく、苦悩や苦痛へと変化していったのです。

 機械である以上、愛情と気合いだけでコンディションを維持することはできません。「潤沢な維持費」という名の惜しみない愛情表現が不可欠です。日に日にクルマは劣化していくみたいだし、手に入れた911がナローポルシェということは、つまり乗り手がクルマに合わせる時代のモデルであることを意味します。「クルマが壊れたのではない、(操作が適切でなかったから)クルマを壊した」といった意識改革が求められたのはいうまでもありません。

 自分が所有することでみるみるコンディションが悪化している……「これはもう自分の手には負えない」。ついにもろもろの重圧から逃げ出したのです。

 幸い、個人売買で売りに出したナローポルシェは割とすぐに買い手がつき(これでローンも完済)、キャリアカーに載せられ引き取られていきました。姿が見えなくなった瞬間、寂しさよりも苦しみから解放されたという気持ちの方が上まわっていたように思います。遅まきながら「911を手に入れることが目的だったのかもしれない」と気づいた瞬間でした。

 ときどき「買えば何とかなる」というアドバイスをくれる方がいらっしゃいますが、「買えば何とかなる(※ただし、勢いだけで手を出していなければ)」がコトの真相であり、「買えば何とかなる」のではなく「買ったら何とかするしかない」のが真実なのかもしれません。

■「続・オトコの72回ローン」で手に入れたプラレール号

■「続・オトコの72回ローン」で手に入れたプラレール号(無事にローン完済しました)

 高校生のときの強烈な原体験、そして24才のときに「オトコの60回ローン」で手に入れたナローポルシェ、そして挫折……。

 挫折。それは夢半ばで諦めたことを意味するわけで、あれだけ苦悩や苦痛を経験しても「いつかまた手に入れよう」という想いはつねにくすぶりつづけていました。「いつか」のマインドのままでは「そのとき」はいつまで経っても訪れません。行動に移さない限りは……。そんな鬱屈とした日々が、長く続きました。

 それでも、無理して手に入れたことが無駄ではなかったように思うできごともありました。かつて一世を風靡した「mixi」のプロフィール画像を1台目のナローポルシェにしていたとき、偶然にも前オーナーさんが見つけて、メッセージをくださったのです。偶然、お互いの自宅が近いことが分かり、前オーナーさんが所有していたときのことや、手放した理由なども伺うことができました。ちなみに、前オーナーさんとは現在も交流が続いており、長年の夢だったという愛車の「ナナサンカレラ」ことカレラRS2.7を何度も運転させてもらい、さらには現在の愛車とのご縁をつないでいただき……日々、お世話になりっぱなしです。

■レストア前のプラレール号。当時のボディカラーは白

 その前オーナーさんのご紹介でお邪魔するようになった世田谷にある老舗のポルシェ専門パーツショップ「エスエス」の社長さんから、「松村くん、これどう?」と声をかけていただいたのが、現在の愛車である1970年式ポルシェ911Sでした。

 でも、1度はお断りしました。見た目はナナサンカレラ仕様。エンジンレスで内外装ともに年式相応のコンディション。いわゆる「レストアベース」の個体です。オリジナルに戻そうにも、肝心のナンバーマッチングエンジンは行方不明。そもそも、レストアするっていったいいくらかかるんだ??? こりゃ、とても自分には手に負えない。そう思えたのです。

 その後、いろいろなことが重なり「これはもう買うしかないゾ!」と意を決し、エスエスの社長さんに直談判。無事、譲っていただけることになりました。10年前の2012年といえば、いまも続いている「空冷911バブル」前夜であり、そして当時は会社員かつ独身だったからこそ「清水ダイブ」ができたのだと思います。

 破格の条件で譲っていただいたとはいえ(代表の藤沼さん本当にありがとうございます!)、一括購入はさすがに無理な話。ようやく一生モノの候補を見つけたのだから、おそらく6年後も手放さずに所有しているだろうと、プラス思考(?)な皮算用をして、前回を上まわる「続・オトコの72回ローン」を組むことに。こうして紆余曲折を経て、再びナローポルシェのオーナーとして再スタートを切ることになったのです。

■レストア中のプラレール号

 手に入れた時点でナナサンカレラ仕様だったこと、またナンバーマッチングエンジンがなかったので、オリジナルに戻すことは断念。迷った末に、当時の自分好みの仕様に仕立ててもらうことに。それはつまり、1台のクルマの運命を大きく変えることを意味します。人によってはおおげさに映るかもしれません。しかし、一生モノとして所有するだけの覚悟と自覚が自分にはあるのか? 何度も何度も自問自答したすえに決断しました。

 ボディカラーは、1台目のナローポルシェの色に近い「パステルブルー」という、当時の純正色に決定。主治医にはこのボディカラーがプラレールの線路の色に映ったようで……。これが「プラレール号」の名前の由来です。

 これでようやく「プラレール号」の仕様が決まりました。ボディワーク、エンジン、各部調整。あとは完成を待つばかり……。

 プラレール号が完成するまでの数年のあいだに、私自身を取り巻く環境も激変しました。独立してフリーランスに。そして結婚して、子どもが産まれ……。しばらくはプラレール号に時間を割くことが難しい時期が続いたため、結果として手元になくてよかったのかも……。


松村 透 MATSUMURA TOHRU

エディター/ライター/ディレクター/プランナー

愛車
1970年式ポルシェ911S(通称プラレール号)/2016年式フォルクスワーゲン トゥーラン
趣味
公私ともにクルマ漬けです
好きな有名人
藤沢武生

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