いくつもの要因が重なって日本は自動車大国へと成長した
また、日本というのは意外に内需が大きい国であったことも自動車産業を成長させた原動力となった。「島国・日本」と表現すると最果ての寒村といったイメージになってしまうが、じつは1950年の国別人口を調べると、日本は8600万人超で世界第5位の“大国”だったのだ。
同時期の中国は5億人超、インドが3億人超だったが、アメリカは1.5億人、ロシアも1億人強といった人口規模であった。いまほどグローバルなモノの移動や分業が進んでいない時期において、世界第5位の人口というのは非常に大きな力となるのはいうまでもない。
結果として、日本国内のニーズにあったコンパクトカーや軽自動車を中心に日本のモータリゼーション(四輪産業)は拡大していくことになる。いわゆる内需の規模が大きいことも、日本の自動車産業を成長させることにつながった。

そのなかで、燃料を輸入する日本では他国により燃費性能へのニーズが大きかった。そして、日本の自動車メーカーが省燃費モデルの開発を進めているなかで起きたのが、1970年代のオイルショック(原油価格高騰)。これにより、燃費性能は世界中で重要な指標となり、日本車の評価を高めていった。そうして世界中に日本車が拡大していくことで、日本の自動車メーカーは個社の単位で十分に成長することができた。
かなり端折ってしまった感もあるが、戦後に航空機産業が禁じられたこと、日本の内需が大きかったこと、省燃費トレンドと日本車の特性がマッチしたことが、日本の自動車産業にプラスに働いた。その結果、乗用車メーカー8社体制が確立されて、いまに至るといったところだろうか。
もっとも、この間には多くの栄枯盛衰がある。いすゞや日野自動車は、それぞれジェミニやコンテッサといった名車もあったが、乗用車からは撤退した。日本でもっとも長い歴史を持つダイハツについても、トヨタの完全子会社となって久しい。
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先日、バス・トラックを製造する三菱ふそうと日野自動車が2026年4月に持株会社によって統合されるという正式発表もあったが、乗用車メーカーにおいても、生き残るための統合や合併が必至という声は小さくない。いつまでも乗用車メーカー8社体制が維持されるとは考えづらいというのも、また実状といえそうだ。
今後も、自動車大国ニッポンという看板を守れるような変革が起きることを期待したい。