この記事をまとめると
■ビートルの生産開始を決定したのはドイツ人ではなくイギリス人だった
■カルマンが手がけたお馴染みの4シーターだけではなく2シーターもあった
■1960年のアメリカでビートルが広まるきっかけとなった挑戦的な広告が展開された
順風満帆ではなく山あり谷ありのエピソードをもつクルマだった
累計生産台数2000万台以上。世界一数多く作られたクルマとしても知られるクラシックビートルことフォルクスワーゲン・タイプ1は、日本でもかつて「黄色いビートルを見ると幸せになれる」などのエピソードがあったが、ここでは世界的に有名なものを3つ紹介していくことにしよう。
まずはビートルの生産開始を決定したのが、ドイツ人ではなくイギリス人だったこと。
ビートルは、フェルディナント・ポルシェ博士が設計し、アドルフ・ヒトラーのもとで国民に供給される予定だった。しかし、直前になってヒトラーが第二次世界大戦を引き起こしたことから、軍用車に姿を変えて戦場に送られることになった。
フォルクスワーゲン製の軍用車・クーベルワーゲン画像はこちら
ドイツは敗戦。ここで工場の管理を任されたのが、イギリス軍のアイヴァン・ハースト少佐だった。彼はビートルの優れた内容に気づくと、連合軍への賠償という名目で生産を命じたのである。当初は連合軍の移動手段に充てられたが、まもなくオランダやスウェーデンなどに輸出を開始。続いてドイツ国内でも販売すべく、サービスネットワークを整備し、エンジニアを養成していく。フォルクスワーゲン・タイプ1という車名が誕生したのもこの時期だ。
連合軍の占領期間が終わり東西ドイツが独立した1949年、ハースト少佐は工場を去ることになったが、育ての親といっていいだろう。
同じ1949年には、ビートルにカブリオレが追加される。
ただし、カルマンが手がけたお馴染みの4シーターだけではなかった。ヘブミューラーというコーチビルダーが架装した2シーターもあったのだ。リヤクォーターウインドウがなく、幌は畳んでもかさばらず、カラーはボディサイドを塗り分けた2トーンとなるなど、上質で優雅な雰囲気を醸し出していた。ところが登場した年に工場が火災に見舞われ、それが原因でヘブミューラーは倒産。カルマンが残ったパーツを使って生産したものの、生産台数は696台に留まっている。
フォルクスワーゲン・ビートル・カブリオレ(ヘブミューラー)画像はこちら
最後はアメリカの話題。
キャルルックなど独自のムーブメントを生んだことでも知られるが、ビートルが多くの人に広まるきっかけとなったのが、1960年にアメリカで展開された、ある広告だった。真っ白なスペースの左上にビートルの写真をちょこんと置き、下に「Think small.」というキャッチコピーを配したというもの。
当時のアメリカは、クルマに限らずなんでも大きいほうがいいという考えが主流だった。そんな時代に、ビジュアルからして正反対のメッセージを出したのは、ある意味で挑戦といえる。だが、結果的にこれが受けて、ビートルはアメリカでも売り上げを伸ばし、キャルルックなどの文化を生むことになった。
カスタムされたフォルクスワーゲン・タイプ1画像はこちら
ビートルに乗ると、戦前に設計されたクルマとは思えない完成度の高さに驚かされるけれど、順風満帆に2000万台超えを達成したわけではなく、山あり谷ありのストーリーだったことがわかるだろう。