これを体験しちゃったらマツダファンになるしかなくなる!? 広島で開催された「メディア編集者体験会」が濃すぎて面白すぎる (1/2ページ)

この記事をまとめると

■マツダがメディア編集者体験会を8年ぶりに開催

■会社の歴史を学ぶ講義や工場見学などが初日に組まれていた

■ブランドを知る貴重な話や見学会に参加した

マツダ尽くしの2日間が開幕!

 筆者がこの業界に飛び込んだのは約7年前。令和に元号が切り替わってすぐくらいの時期だった。当時は下っ端も下っ端で(現在は下っ端くらい)、上からいわれる仕事を右から左へただひたすらにこなしていた……記憶がある。

 基本的に自動車メディアは筆者の親世代よりやや若いくらいの人たちが主役で、入社当時と比較して最近は全体的にかなり増えた(気がする)が、それでも20〜30代というのは希少種。40代でも若手なんて弄られている人がいるほどの高齢化社会である。しかもほぼ全員(編集からカメラマン、ライター含む)百戦錬磨のベテラン揃い。

 そんな自動車メディア業界であるので、若手もへったくれもないのだが、マツダ”だけ”は違う。というのもこのマツダというメーカー、1994年から「メディア編集者体験会」なる、業界の若手向けイベントを長年開催しているのだ。このユニークな取材会の存在自体は筆者も入社早々に聞かされており、「次の開催があったら行ってきなよ」なんていわれていた記憶がある。筆者が入社する前年の記事では、先輩社員がマツダが有する山口県の美祢試験場(元美祢サーキット)で、R360などに乗っている場面を見かけた。それだけでもう興味津々であった。

 ……しかし、待てど暮らせどその機会はいつまで経っても訪れず、ついには7年も過ぎてしまったわけだが、それが2026年3月、8年ぶりの開催という形で蘇ったのだ! これはもう行くしかない! 社内ではなぜか誰が行くのか、ドラフトみたいになりかけたが、そこはもう何年待ったと思っているのか。間髪入れずに挙手。無事、参加が決まったわけだ。ということで筆者は山口県へ。

 なおこの取材会、参加条件がちょっとユニークで、「各編集部に配属間もない方」、「若手編集者」、「過去、マツダ体験会に参加したことの無い編集者」が対象となっている(社内事情的に難しい場合は誰でも可)。

 本イベントの最初の会場は、山口県のとあるホテルの会議室。見渡すと、年齢が近い同業他社の知り合いなどが多めではあったが、ある編集部ではアルバイトの大学生、またある編集部では総局長や編集長レベルの人まで、幅広い層が参加していた。聞くと、「私は何度もこれに参加しており、初参加は1994年です」という方もいた。1994年といえば、筆者の生まれた年じゃないか! まあそれだけ歴史が長いイベントということでもある。

 まずここで早速行われたのはズバリ、「マツダの歴史」に関する講義だ。講師を務めるのはマツダでコーポレート事業本部に籍を置く植月真一郎さん。大学での講義経験もある教員的な存在だ。

 ここでは、「なぜ広島で」「どのようにしてマツダがいまのようになったのか」といった内容を、大学の講義ばりに解説するところから始まった。これがまあ面白い。むしろこういった座学的な講義を聞きたいがために大学に行ったほどなので、個人的には全然ウェルカム。講義の入口は「なぜマツダを含め広島には工場が多いのか?」から。

 聞くと広島は典型的なデルタ地形で、農業との相性が悪い地域だという。そこで国や自治体、地域の人が目をつけたのが工業であったという。たしかにここ広島は、日本海軍の呉海軍工廠(戦艦大和などが建造された)などの当時東洋一と呼ばれた軍港があったし、いまでも造船業をはじめ、さまざまな巨大企業、工場を有している地域だ。

 マツダは、松田重次郎さんが1920年に東京コルク工業というワインコルクを主とする工場から創設したことからスタート。その後、工場火災などに見舞われつつ、1927年には心機一転、「これからは工業の時代だからコルク以外もやろう!」ということで東洋工業へ改名、1931年には同社初の乗り物である、三輪車「マツダDA型」を発売。1938年に販売した「マツダ・グリーンパネル」というのが、マツダ車初となる、車名を与えられたクルマとのこと。1960年にR360クーペを販売するまで、マツダはなんと三輪車に特化した企業だったのだ。

 RX-7やロードスターといったイメージが強すぎるだけに、意外な事実をここで知ることになった。なお、1930年代は、「ダイハツ」「いすゞ」そして「マツダ」が三輪車業界を牽引しており、この3社は当時、御三家とも呼ばれていたそう。トヨタや日産がまだない時代の話である。ちなみに戦時中は、三八式歩兵銃などの銃器をメインに製造していたという。じつに面白い話の連続だ。

 その後のマツダは、いまでも同社の代名詞的存在であるロータリーエンジンを、1961年からドイツのNSUとの技術提携を経て開発、1967年に伝説の名車、コスモスポーツでロータリーエンジンが市販化されることになる。しかしこのコスモスポーツを販売する前に、マツダは窮地に立たされていたという。

 それが、特定産業振興臨時措置法案、通称「特振法」と呼ばれるもので、これは、当時の日本政府が、日本の自動車産業を世界に通用させるために、国側で業界を再編しようといったもの。「ミニカー」「量産車」「特殊車」といったカテゴリーにわけられており、好きなクルマを作れなくなる可能性があった。それに猛反発したのが、本田技研工業の創立者、本田宗一郎さんであった。紆余曲折あり、結局この特振法は幻となり、マツダは現在のようなメーカーになれたというわけだ。もしここで本田宗一郎さんが「はい、そうですか」なんていっていたら、いまの自動車業界はとんでもないことになっていたかもしれない。

 その後、ロータリーエンジンは排ガス浄化性能に優れていたほか、小さいエンジンでパワーが出るとのことで、当時世界一厳しいといわれた排ガス規制、マスキー法をクリアするだけでなく、アメリカ市場でも大ヒット。一気に日本を代表する企業へ急成長。もうひとつの日本メーカーが、かのCVCCエンジンで有名なホンダであった。

 しかし、いい風ばかり吹き続けないのが自動車産業。マツダはアメリカへの輸出が波に乗っており、この機会を逃すまいと、1975年にさらなる需要に応えるために、山口県で同社のマザー工場ともいえる防府工場を建設し、来たる需要への準備を進めていた。しかしその後、世界的なオイルショックにより、当時は「排ガスがクリーンでパワーが出る代わりに燃費が悪い」というキャラクターだったロータリーエンジンの人気は一気に下火に。

 その後、オイルショックが落ち着き、「ようやくまたクルマを売りまくれる!」とマツダは意気込んだ。しかし、防府工場を1982年にフル稼働させようとしたところ、今度は日本メーカーが北米市場をターゲットに、続々と海外へ工場を進出させる。さらにそれだけに留まらず、1992年ごろにはバブル経済も崩壊。さらに最近ではトランプ関税による輸出でも一時は苦境に立たされた。一難去ってまた一難……どころではないのだが、とにかく苦難の連続だったという。

 三輪車メーカーから、ロータリーエンジンでル・マン24時間耐久レースを制し、さらにはスカイアクティブXやスカイアクティブZといった最先端のエンジンを開発するまでの過程で、オーバーキルとも呼べる悲劇が、マツダを襲ってきた……。マツダ博士を名乗れそうなほどの情報が降り注いだ有料級の講義から、この取材会がスタートしたのであった。そう、これだけ書いておいてまだこれでイベントの3分の1ほどなのだ!


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WEB CARTOP 井上悠大 INOUE YUTAI

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