豪華客船上での偶然の出会いが生んだ「英×米×伊」のコラボ! もはや映画化必至の奇跡のクルマ「ナッシュ・ヒーレー」とは (2/2ページ)

美しさはアメ車のなかでも桁違い

 また、ヒーレーはボディのデザインも担ったとされています。のちのオースティン・ヒーレー100シリーズに通じるオープンカーで、アルミを使ってパネルクラフトシートメタル社がバーミンガムで製作。こうしてでき上がったドンガラに、アメリカから送られてきたエンジンを搭載し、完成車をふたたびアメリカに送り返すという当時としては異例のロジスティック。しかし、こうした高性能&高品質を狙った英米連携が価格の高騰を招いてしまったことは皮肉としかいいようがありません。

 前述のとおり、1951-52年には宣伝効果を狙ってルマンに参戦したナッシュ・ヒーレーですが、どうやらメイソンはデザインがお気に召していなかったようで、1952年にはピニンファリーナにデザインのやり直しを依頼しています。カロッツェリアの創始者、バッティスタ・ピニンファリーナ自身が描いたとされるデザインは往年のイタリア製スポーツカーにも似て、そこらのアメ車ではかなわない美しさと存在感を醸し出しているかと。

 もっとも、製造工程はイタリアの架装が加わることでさらにコストが増してしまうという弱点もありました。当然、アメリカでの価格も上昇し、1954年にはついに生産中止の憂き目を迎えることに。生産台数は、1953年以降に加わったハードトップ仕様の90台を加えても、わずかに506台という希少種となっています。

 それでも、根強いファンが多かったナッシュ・ヒーレーはいまでもオークションに数多く出品されています。数が多いのは1952年以降のピニンファリーナ・ボディで7万〜10万ドル、次いで90台しかないはずのハードトップが10万〜13万ドル、最初期モデルはさすがに数が少ないのか10万ドル以下で見つけ出すことはかないませんでした。どうやら、アメリカンスポーツカーの先駆けとして、じつに画期的なモデルだったナッシュ・ヒーレー、もっとたくさん製造してほしかったと願うファンは少なくなさそうです。


この記事の画像ギャラリー

石橋 寛 ISHIBASHI HIROSHI

文筆業

愛車
三菱パジェロミニ/ビューエルXB12R/KTM 690SMC
趣味
DJ(DJ Bassy名義で活動中)/バイク(コースデビューしてコケまくり)
好きな有名人
マルチェロ・マストロヤンニ/ジャコ・パストリアス/岩城滉一

新着情報