GT-Rはいかにして世界最強に登り詰めたのか? R32からR35までGT-Rを知り尽くす「現代の名工」が語る開発の舞台裏!! (1/2ページ)

筑波最速の座をめぐるGT3との熾烈なバトル

 2025年8月26日、日産栃木工場でR35型GT-R最後の1台がロールアウトし、2007年の発売から18年続いた第3期GT-Rの歴史が幕を閉じた。

 CARトップでは第2期の生産終了からR35型として復活を遂げた足取りも、成長も追い続けてきた。日本のパフォーマンスカーの象徴であり、世界のクルマ好きからの注目度の高さは言うまでもなく、編集部としてもその進化に胸躍る稀有な存在だったからだ。

 01年のコンセプト、05年のプロト、そして07年の量産型と、いずれも発表の場は東京モーターショーだったが、GT-Rが現れればショーの主役の座を独占し、その年の日産ブースは熱狂に包まれた。発売後も、公道からサーキットまでさまざまなシーンでその実力を試してきたが、見せ場は筑波サーキットでのタイムアタックだ。

 CARトップが長年に渡って続けてきたタイムアタック、その歴代トップの座は近年、GT-Rとポルシェ911 GT3系との熾烈な争い。ニスモ18年モデルが1分00秒293をマークするも、991 GT3の59秒869を破れずにいた19年に、ニスモ20年モデルが渾身のアタックを試みて59秒361の量産車コースレコードで宿敵を打ち負かした。

 また、24年にはその記録更新を目指す日産開発陣の挑戦に密着。59秒078という驚異のラップタイムの目撃者となった。

 そうして、手を取り合って歩んできたと(勝手に)共感を覚えているR35型GT-Rが生産終了を迎え、CARトップ的には一抹の淋しさを禁じ得ない。 そこで我々はR35と、その名を再び世界に知らしめたR32〜R34の第2期GT-Rの歴史を改めて振り返るべく、開発の舞台裏を知り尽くす人物に話をうかがった。

 テストドライバーとして開発の現場で長く尽力し、現代の名工として卓越した技能を表彰された日産自動車のトップガン、加藤博義氏である。

アテーサE-TSの開発は地道な努力の積み重ね

「じつはスカイラインには興味なかったんですよ、追浜入社だし」と言う加藤さん。フェアレディZに憧れて1976年に入社すると、配属されたのはZを手がける追浜の車両実験部。当時、旧プリンス自動車の流れを汲む村山工場が管轄していたスカイラインとのつながりは希薄だった。

「追浜と村山は相容れないというか、いまじゃ信じられないけど、同じ日産なのにエンジンもシャシーもそれぞれまったく違うものを作っていましたからね」

 そんな加藤さんがR32型GT-Rに携わることになったきっかけは、四輪駆動システムである”アテーサE-TS”の開発に従事していたことだと言う。

「研究所にいた、あるエンジニアが、FRでパワーオーバー、FFでパワーアンダーなら、FRでリヤが流れたらフロントにパワーを送っちゃえば、って考えたんですよ。同じ頃、タイヤ幅が制限されるグループAレースで、パワーを上げるなら四駆にしたら、っていう動きもあったようで、それで開発が始まりました」

 ハイテク4WDのはしりともいうべきアテーサE-TS。しかしその開発は、アナログな作業の地道な積み重ねだったと言う。

「当時はパソコンなんてなかったからデータはすべて手書きでした。回転数を変えながらの発進加速にはじまって、0.05G刻み、舵角は5度刻みでの右旋回・左旋回と、車速や駆動力配分を変えながらテストして、数値化して、データ入力を担当する日立のエンジニアに渡すところまで自分でやりましたね。ドライでそれが終わったら、今度はウエット、その次はスノー。テストドライバーの昇級訓練を受ける余裕すらなくて……」

 しかし、この4WDシステムを専従開発していたことが、飛び級的なGT-Rのテストドライバーへの抜擢へとつながったのだ。


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