1979 Ligier JS11 – Ford Cosworth DFV 「オールフレンチ」を目指しながらもDFVで好成績
フランスのスポーツカーメーカーだったリジエは、自社製スポーツカーでル・マン24時間レースに参戦していた。そして1976年からはF1GPに挑戦を開始している。ボスであるギ・リジエは当初“オールフレンチ”を標榜し、マトラ・エンジンを搭載したリジエJS5を投入した。
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この年、ジャック・
ラフィーが3度表彰台に乗るなどニューカマーとしては上々の滑り出しを見せ、
翌77年にはラフィーが初優勝を飾ったが、78年シーズンを限りにマトラがF1活動を休止。
そこで79年にはDFVを搭載したブランニューのJS11を完成させている。そしてシーズン開幕からラフィーが2連勝。
第5戦ではルーキーのパトリック・
ドゥパイエも初優勝を飾るなど見事なパフォーマンスでコンストラ
クター3位に進出した。2013年にエンツォ・
フェラーリ博物館の企画展で撮影。
1979 Lotus 80・Ford-Cosworth DFV 革新的なアイデアも、熟成叶わず不振のシーズンに
フェラーリを筆頭とするV12勢に、絶対的なパワーウォーズで後れをとってしまうDFVユーザーは、必然的にシャシーや空力を含めたトータルでのパフォーマンスを追求することになる。DFVのデビュー当時からこれを愛用してきたロータスは、総帥のコリン・チャップマンが様々なアイデアを連発。
中でも1977年に投入されたロータス78が提示したグランド・エフェクト…一般的にはウイングカーとして知られる理論は、それ以後のF1GPカーの設計手法を一新することになった。ライバルもこれに追随してきたから、パイオニアのロータスはさらに先を目指し、79年には前後のウイングを取り去る究極のパッケージングを持った80を投入した。ところがテストからサイドスカートにトラブルが頻発。78年チャンピオンでエースのマリオ・アンドレッティが3戦に使用しただけでお蔵入りとなった悲運のマシンだ。イタリアはトリノにある国立自動車博物館の企画展で撮影。
1980 Fittipardi F7 ウルフの改良版でランキングもベストタイの好成績
1972年と74年、2度の世界チャンピオンに輝いたエマーソン・フィティパルディが実兄のウイルソンとともに、75年に興したレーシングチーム/コンストラクターがフィティパルディ。79年まではタイトルスポンサーだったコパスカーを名乗っていたが、79年まで参戦していたウォルター・ウルフ・レーシングを吸収、ウルフの79年モデル、WR9に小改良を加えた80年仕様がF7。
そもそもはオリジナルのF8が完成するまでの“つなぎ”と計画されていたがシーズン前半の7戦に使用された。ウルフから移籍した若手…しかし2年後にはウイリアムズでワールドチャンピオンに輝くことになるケケ・ロズベルグが、開幕戦のアルゼンチンGPで、自身初の3位表彰台を獲得しているが、ジンスハイム自動車博物館の別館に展示されていたのはまさにその個体そのものだった。
1980 Ligier JS 11/15・Ford-Cosworth DFV DFVでの2シーズン目でランク2位のベストリザルトに
先に紹介したリジエの79年モデル、JS11を改良した80年モデルがJS11/15。アップデートは主にカウル周りの空力処理。シャシーは特に大きな改変はなく4台製作された79年モデルのJS11が、総てJS11/15に生まれ変わっている。
79年モデルのFW07をアップデートしたFW07Bを使用するウイリアムズや、79年シーズ終盤にデビューしたBT49を使用するブラバムとともに、第二世代ウイングカーの三強としてシリーズを盛り上げた。アラン・ジョーンズとカルロス・ロイテマンを擁するブラバムが、結果的には圧勝したものの。コンストラクターズランキングでベストリザルトとなる2位に食い込んだ。スパ-フランコルシャン・サーキット博物館で撮影。