鈴木修会長の「勘ピュータ」の勝利! トヨタでも日産でもなくインドで「スズキ」が圧倒するワケ

インド政府がスズキに国民車普及を依頼したことがきっかけ

 インド最大の都市であるデリー市街を歩いたり、またはタクシーやライドシェアのクルマの車窓からデリー街の様子を見ていると……。スズキの車が多いことを実感する。これは、インド中西部のムンバイや、インド南部のバンガロールに行っても同じことだ。さまざまな案件でインド各地に行くが、スズキのクルマが、そしてスズキの事業がインド国民の生活に根差していることに本当に驚く。

 スズキがインドに進出したのは1981年。最初はマルチ・ウドヨグという国営企業だった。なぜ国営企業なのかといえば、インド政府がスズキに対して、いわゆる国民車の企画、製造、販売を全面的に任せたから。

 事の発端は、インド政府高官らが80年代初頭、今後のインド経済を下支えするためには庶民の足を二輪車から四輪車への引き上げることが必要だと考え、自動車先進国である日本を訪問して自動車メーカー各社に打診をした。そうしたなかで、もっとも積極的に受け答えをしてくれたのが、スズキの鈴木 修会長(当時は社長)だったという。

 スズキは当時、日本国内で廉価な軽自動車「アルト」を発売し、それまで50㏄原動機付き自転車など日常の足としていた主婦層などにも、気軽な軽が浸透し始めた時期だった。

 一方で、「アルト」を全国各地で拡販するなかで、当時の日系ビック2であるトヨタと日産の商品力や営業力をスズキは目の当たりにしており、スズキが今後成長するためには他社とはまったく違った事業戦略が必要だとも考えていた。そうした時期に、インド政府高官がスズキにやって来たのだ。

 自動車業界でよく言われる、コンピュータならぬ「鈴木 修会長(当時の社長)の“勘ピュータ”」が、このインド政府事案を一気に取りまとめた。当時のインドは、まだ社会主義の政治体制が強く、外資が参入するためにはさまざまな法的規制があり、また現地の社会状況に対する情報不足もあり、自動車メーカーに限らず日本企業にとってインドへの事業進出には大きなリスクがあったが、それでもスズキは思い切った決断をした。

 その後、事業会社は民間のマルチ・スズキとなり、販売網はインド全土に広がり、工場も拡張、さらに新設されて、スズキのインド事業は右肩上がりで伸びていった。現在、スズキの事業全体を見渡すと、売上高全体の約9割が四輪事業となる。そのうちの約半分が、インドでの売り上げであり、日本は約3分の1にとどまっている。

 インドの人口は日本や10倍以上となる、13億3400万人。近い将来、人口数は中国を抜いて世界No.1になることが確実視されている。今後も、インドでのスズキの車の数が増え続ける可能性が高い。


桃田健史 MOMOTA KENJI

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