伝説のスーパースポーツは「持ち上げ」られすぎ!? 難物だった「ポルシェ959パリ・ダカール」とは (2/2ページ)

1986年のパリダカで優勝!

 結論から言うと3台出場するも全滅。1985年の959は953のアウタースキンを替えた程度のラリーマシンで、エンジンや4輪駆動システムも本番の959用でなく953ベース、言葉は悪いかもしれませんが「959もどき」でしかなかったとも言えるでしょう。よりによってフランクフルトでグルッペBでなく959として販売のお披露目をしたその年です。ボット教授の面目丸つぶれもいいところでしょう。が、彼をかばうわけでもなく、959はもともとスポーツカーレースを目指したホモロゲマシン。953というテストベッドとて、959とは似ても似つかぬ911ベースですから、失敗するのも致し方ないところ。

 それでも、失敗の原因は車高を上げたことによるエンジンとアクセルシャフトの関係が悪化したことと言われています。953から同様の課題はあったものの、ジャッキーに言わせると優勝や入賞・完走については「ありゃまぐれだ」とのことで、レース中もずっと駆動系の不安を抱えて走っていたそうです。つまり、アクセルシャフトに角度が付きすぎて、応力集中がシビアになり、果ては破損、折損といったトラブルを招くということ。953よりいくらか重い959はさらに不利になったことでしょう。

 1985年の全車リタイヤについて公式には岩にあたったとか、オイルラインが破損したなどとされていますが、個人的には前述の駆動系パッケージの未完が遠因となったことは否めない気がします。なにしろ、前述のボット教授の愚痴はちょうどこの年、パリ・ダカール直前のインタビューで口にされたものと記憶しています。また、ポルシェは伝統的にエンジニアよりも販売や宣伝の役員が実権を握っている会社ですから、959を無理やりにでもパリ・ダカールで勝たせることが強く下命されていたのも想像に難くありません。

 が、翌年エントリーした959はこれでもかと強さを見せつけ、優勝、2位、6位というリザルトを手に入れました。公開されてはいませんが、どうやらエンジンの搭載位置、方式を刷新し、ギヤボックスやシャフトといった駆動系をカスタムしたようです。きちんと調べられた資料は存在せず、6台が製作された959パリ・ダカールは1台が個人の手元にあるほかすべてポルシェ博物館に所蔵されているので、詳細は不明としときましょう。

 優勝したことで959はレースシーンでの宣伝という大役を全うし、予定台数をはるかに超える受注を実現。役目が終わったということで、959はファクトリーチームともどもパリ・ダカールはおろか、ラリーシーンから姿を消したのでした。ただし、同じ年に961と名前を変えてル・マン24時間レースに出場。主催者のACOによって、どういうわけかIMSA-GTXなるクラスが新設され、クラス優勝したものの、エントリーは961ただ1台のみ。もっとも、グループCカーに混じって総合7位(上位6台はすべてポルシェ)という立派な成績だったので、ボット教授をはじめとした開発陣はようやく胸をなでおろしたに違いありません。

 その後は961でアメリカのIMSAに参戦したものの、オイルラインの破損から炎上、リタイヤという苦い結果に。これでヴァイザッハのレース魂に火が付いたのでしょう。翌1987年、961は足まわりとボディに大幅なモディファイを受け、またエンジンもパワーアップされて再びル・マンに登場! ですが、持病ともいえる駆動系トラブルによりたびたびのピットイン作業に加え、最終的にはエンジンルームから火が出てリタイヤという惨憺たる結果に。これにはフルスポンサーだったロスマンズもガッカリしたことでしょう。

 959はそのパフォーマンスや先進的技術の数々から、なかば神格化されて語られがちですが、パリ・ダカールでのヒストリーや、その後のレース活動などを振り返ってみると、いささか持ち上げすぎと言えなくもありません。ロードカーとしては究極の出来栄えだったとしても、レースの女神はそうたやすく微笑みかけない、てな具合でしょうか。


石橋 寛 ISHIBASHI HIROSHI

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