フィアットじゃない「500」を知ってる? 和製「チンクエチェント」三菱500がいま見るとメチャメチャいけてる

この記事をまとめると

三菱には「国民車構想」の一環で生まれたクルマとして「三菱500」というモデルがあった

■RRレイアウトや四輪独立サスペンションを採用したほか、国産車初の風洞実験も実施した

■デザイン面で人気を得ることができず、後継車種へバトンタッチした

三菱らしいこだわりのメカニズム満載だった

 クルマの車名で「500」と言えば、フィアットがリリースしている小型車のフィアット500を脳裏に浮かべる人がほとんどだろう。しかし、過去には日本車にも500を名乗るモデルが存在していた。それが、1960年に販売を開始した「三菱500」である。

 現在の三菱自動車の前身である新三菱重工業が初めて自社で独自開発したモデルでもあった三菱500は、当時の通商産業省が打ち出した“国民車構想”によって生まれた1台で、スバル360やトヨタ・パブリカなど、国民車構想がきっかけで誕生した多くの名車のなかのひとつとなっていた。

 そんな三菱500は、車名の通り500㏄(493cc)のエンジンを持つ4人乗りの2ドアセダンボディの車両となっており、エンジンはリヤに搭載されて後輪を駆動するRRレイアウトを採用。そのためにグリルレスの個性的なフロントマスクを持ち合わせることになったのだった。

 国民車として生まれた三菱500は、当時の価格で39万円となっていたが、これは軽自動車以外で40万円を切る初のモデルとなっており、リーズナブルな価格が最大の特徴となっていた。さらに、RRレイアウトから来る広い室内空間や前後ともトレーリングアームとコイルスプリングの独立式サスペンションを採用するなど、意欲的なメカニズムを持ったモデルともなっていた点は、三菱らしいポイントと言えるだろう。

 さらに、三菱500は日本車としては初めて風洞試験を実施して生まれた1台となっており、5分の1サイズのモックアップを使用してテストを行ってスタイリングを完成させていたのだ。

 ただ、三菱500のルックスはいまでこそキュートでファニーな印象を与えてくれるが、当時としてはやや古臭く見え、翌年登場したパブリカなどに比べると貧相な印象があったことも災いし、販売面が鈍化。

 1961年8月にはテコ入れ策として、エンジンを594ccに拡大し、乗車定員も5名にアップさせた上級仕様のスーパーDXを追加するが、人気を回復するには至らず、1962年には早々にフルモデルチェンジを実施して「三菱コルト600」へとバトンタッチをすることとなってしまった。


小鮒康一 KOBUNA KOICHI

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日産リーフ(2代目)/ユーノス ロードスター/マツダ・ロードスター(2代目) /ホンダS660/ホンダ・オデッセイ(初代)/ 日産パルサー(初代)
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