レガシィに託された使命は停滞するスバルの起死回生
レガシィ登場以前のスバル(富士重工業)と言えば、軽自動車のスバル360の大ヒットこそあったものの、普通車市場では地味な印象のメーカーだった。レガシィの前身であるレオーネは、スバルのアイデンティティとも言うべき水平対向エンジンや、当時の乗用車としては稀有な4輪駆動の設定などでコアなファンをつかんでいたが、一般的にはマイナー車種に甘んじていた。スバル社内でもそれは承知で、技術者は悔しい思いをしていたと辰己さんは語る。
辰己英治さん
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1970年、富士重工業(現・スバル)入社。車両研究実験部のテストドライバーとして、長年にわたってスバル車の走りを鍛え上げた。2006年、転籍したSTIの車両実験部長に就任。ニュルブルクリンク24時間レースやSUPER GTのレース活動でも総監督として指揮を執ったが、2024年に一線を退いた。
「とにかくいいクルマを作りたいんだ、っていう空気が全社的にあったんですよ。レオーネを作っていて、俺たちの技術力はこんなもんじゃないはずだ、っていう思いがね。そこで、起死回生のフルモデルチェンジをしてやろうって気運が高まったのが、1985〜86年ころだったかな」
1966年に発売された初の本格普通車であるスバル1000は、水平対向エンジンだけでなく、ほかに先駆け、前輪駆動を採用した意欲作だった。しかし、その後は技術的に大きな変革がなく、辰己さんの言葉を借りれば、技術陣には「レオーネで冷や飯を食ってきた」という不満があったという。
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「スバル1000から1300、そしてレオーネと作ってきたけど、床まわりはあまり変わらなかったし、ダブルウィッシュボーンサスペンションやインボードブレーキといった特別な技術はむしろ消えていって、なにも面白いことがなくてね。だから次こそスゴいものを作ってやろうと、力が入ってましたね」
当時のスバルがいかに変化を求めていたかをうかがい知れるエピソードも、辰己さんは口にした。
「じつは『スバルのマークを外そう』っていう意見もあったんですよ。当時としてはとんでもないことだったけど、とにかくイメージを変えたかったんですよね」
結果として六連星は残ったが、後に初代インプレッサが専用エンブレムを採用。レガシィは新たなスバルの出発点だったのだ。
「独力で開発した」伝説は広告戦略の産物だった!?
初代レガシィはチーフテストドライバーを務めた辰己さんが独断的に走りを仕上げた、というのが通説となっているが、ご本人いわく、それは大袈裟な話なのだとか。
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「その頃、ダートラとかオフロードのレースをやっててね。社内でモータースポーツをやってる人間があまりいなかったんで、コイツがいいってなったみたいなんだけど、開発を取り仕切っていた桂田 勝さんや、技術本部長の森永 鎮さんが、辰己にやらせるんだ、みたいな空気を社内で作っていって、それでまわりが誤解して、アイツはスゴいヤツだ、みたいになっちゃったんですよ。自分が全然知らないところでね。それにあの頃、誰それが作りましたって個人を前面に出すようになってきていて、発売するときの広告に、エンジンは誰、シャシーは誰、って顔が出たんですよ。人が見えるようにしようっていうマーケティングの戦略に乗せられちゃってね。そこからどんどん話が大きくなっただけなんですよ」
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とはいうものの、レガシィの走りの方向性を決める上で、辰己さんが担った役割は大きい。
「レガシィの立ち上げ前の先行開発で、レオーネってどうして曲がらないの? って考えたんですよ。サファリラリーにも出ていて悪路走破性はいいんだけど、舗装路では旋回性が悪くて。じゃあ次は、スマートで都会的な、舗装主体のクルマにしようとアピールして、イメージチェンジを求めていた社内が、その方向へ動いていったんですね」