いずれも時代の荒波に立ち向かっている
だが、どれほど彼らが「俺たちは信号を守っている」「暴走族ではなく大人の趣味団体だ」と主張しようとも、一般市民から見れば「けたたましい爆音で威圧感を与える集団」であることに変わりはない。消音器の不備や過度な改造が道交法違反に問われるケースもあり、社会との摩擦はいまなお解消されていないのが現実だ。
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だが皮肉なことに、このガラパゴス的な旧車會カルチャーは、いまや海を越えて注目を集めてもいる。
アメリカやヨーロッパのJDM(日本内規仕様車)ファンの間では、「BOSOZOKU Style」は独創的なアート表現として無邪気に礼賛されている。竹槍マフラーや極端な出っ歯スポイラー、ギラギラのラメ塗装は、彼らにとって「他国の真似ではない、日本独自のクレイジーでクールなカスタム文化」なのだ。
彼らはそこに、かつて日本の路上で吹き荒れた暴力の恐怖や、深夜に叩き起こされた近隣住民の怒りといった文脈を読み取らない。純粋に視覚的なインパクトと造形の特異性だけを面白がっているのだ。
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その一方で、この状況に若干頭を抱えているのが、新字体のほうの「旧車会」の人々である。
彼らは名車と呼ばれる往年のヒストリックカーやクラシックバイクを、メーカー出荷時のオリジナル状態に近い形で大切に維持・保存している純粋な愛好家たちだ。休日になれば風光明媚なルートを走り、イベントでボンネットを開けてキャブレターの造形美を語り合う。
そんな彼らにとって、「きゅうしゃかい」という同一の響きでひとくくりにされることほど迷惑な話はないだろう。「週末に旧車会の集まりがある」と口にしただけで、中途半端にクルマに詳しい知人からは眉をひそめられ、イベント会場を借りる際にも、施設側から「あの暴走族っぽい集団ではないですよね……?」と念押しされる始末だ。彼らからすれば「頼むからあっちを『旧車會』ではなく別の名前で呼んでくれ」というのが偽らざる本音だろう。
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歴史的価値を重んじ、純正オリジナルを至高とする「旧車会」。過去の不良カルチャーを様式化し、過剰なデコレーションを施す「旧車會」。
両者の思想はまさに水と油であり、同じ駐車場に居合わせたとしても決して視線が交わることはない(たぶん)。だが少し意地悪な視点で見れば、この両者は、根底においては驚くほど似ている部分もある。
どちらも数十年前に作られた(現代の視点で考えれば)不便きわまりない旧世代の乗り物に憑りつかれ、現代の高性能で快適なエコカーには目もくれない。パーツの廃番に怯え、オークションで高騰する中古部品を血眼になって探し、高額な維持費を惜しげもなく注ぎ込む。雨の日はサビを恐れてガレージから出さず、ガソリンとオイルの匂いにまみれながらキャブレターの同調を取ることに、無上の喜びを感じる。
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対象を「文化財」として愛でるか、「自己表現のキャンバス」として愛でるかの違いこそあれ、そこに注がれている情熱の熱量と、世間一般から見た場合の「狂気」の深度はけっこう似ているのだ。
だが、そんなふたつの「きゅうしゃかい」にも、抗えない時代の波が押し寄せている。
空冷エンジンを直撃する近年の猛暑酷暑や、法外なレベルまで跳ね上がった旧車の車両価格、そしてなによりオーナーたちの高齢化だ。かつて尖っていた旧車會のメンバーもいまや40代から50代半ば以上が中心。肉体的な衰えとともに、重いクラッチや爆音に耐えうる体力および精神力にも限界は近づきつつある。
さらにいえば、世のなかは電動化とカーボンニュートラルへと舵を切り、化石燃料を燃やして走る旧車そのものの肩身も年々狭くなってきている。旧車会も旧車會も、いますぐ絶滅することは決してないはずだが、昭和の鉄と機械の塊に魅せられた者たちの饗宴は近い将来、ラストダンスの時を迎えるか、あるいは大幅な規模の縮小を強いられることになるのかもしれない。
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新字体の「会」であれ旧字体の「會」であれ、キャブレターが吸気音を響かせ、ガソリンの匂いを撒き散らしながら公道を大勢で走れる時間は、もうさほど長くは残されていないのである。