買えぬなら倒してしまえ跳ね馬を! 打倒フェラーリの意地が生んだ「フォードGT40」伝説 (1/2ページ)

買えぬなら倒してしまえ跳ね馬を! 打倒フェラーリの意地が生んだ「フォードGT40」伝説

この記事をまとめると

■フォードが「打倒フェラーリ」の旗印の元に開発したのがフォードGTだった

■正式車名は「GT」で通称名の「GT40」は車高が40インチほどであったことに由来する

■フォードはワークス体制でル・マン24時間に参戦して1966-67年を連覇した

フェラーリvsフォードの仁義なき戦い勃発

 1960年代のモータースポーツ。そのなかでもル・マン24時間レースをもっとも盛り上げたメイクスといえば、それはフェラーリとフォードということになるのだろう。

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フォードGTとフェラーリ365P2の走行シーン画像はこちら

 当時、フェラーリを率いていたのは、もちろんかのエンツォ・フェラーリ。一方のフォードはリー・アイアコッカが、プロダクションモデルのセールス、そしてブランドのイメージを高めるにはモータースポーツでの勝利が一番の得策であると考え、戦うよりもむしろそのフェラーリ自体を買収する方が効率的であるという計画さえ進行していた。

フォード・マスタングを発表するリー・アイアコッカ画像はこちら

 大胆に表現するのならば、モータースポーツにしか興味のなかったフェラーリにとって、ロードカーの生産と販売という大きな負担から逃れることができるのだから、これは両社にとってあながち悪くはない話だったとも思える。だが、結局、このフォードによるフェラーリの買収計画は決裂。アイアコッカの戦略は、この瞬間にモータースポーツにおける「打倒フェラーリ」へと大きく方向転換してしまうのだ。

 1964年4月、その目的を果たすために製作されたフォードの試作車両がヒースロー空港で発表された。フェラーリの存在を超えるために選ばれたパートナーは、ローラのエリック・ブロードレイ。さらに、フォードは彼のファクトリーとは別にフォード・アドバンスド・ヴィークルズと名付けられた最前線基地をイギリスに置き、開発が迅速に行えるように体制を整えた。

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 実際の生産はジョン・ワイヤーに委ねられ、結果、ライバルのフェラーリよりも力強く、そして優秀なエアロダイナミクスを想像させるマシンが完成したのだった。最初にこのマシンに与えられたネーミングは「フォードGT」。後にGT40とも呼ばれるようになったのは、その車高が40インチ(約102cm)ほどと低かったためだ。

名前:
山崎元裕
肩書き:
AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)会員 /WCOTY(世界カーオブザイヤー)選考委員/ボッシュ・CDR(クラッシュ・データー・リトリーバル)
現在の愛車:
フォルクスワーゲン・ポロ
趣味:
突然思いついて出かける「乗り鉄」
好きな有名人:
蛯原友里

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