昭和は国民が日本車の性能に熱狂! ニッポンを元気にさせた偉大な国産車5選 (2/2ページ)

日本車の活躍にみんなが熱狂!

 そして、本当に日本車が世界で戦える実力を身につけたと感じさせたのが、1971年(昭和46年)のサファリラリー。アフリカ・ケニアで競われる過酷なラリーは、「世界三大ラリー」のひとつに数えられる、それ自体で独立した存在感を放つ伝統的なイベントだ。そんなサファリラリーをブランディングの一環として重視していたのが1960年代の日産で、日本でヒットした映画「栄光への5000キロ(石原裕次郎・主演)」は、昭和40年代にサファリラリーでクラス優勝を果たした日産とコラボレーションしたものだった。

 その成果として総合優勝を果たしたのが1971年に参戦したフェアレディ240Z(HS30型)で、北米マーケットで売れている国産スポーツカーが、パフォーマンス面でも世界をリードするものであることが証明されたと日本人の自信につながった。なお、サファリラリーにおける日産の総合優勝は、前年1970年にブルーバード1600SSSで成し遂げているが、インパクトが大きかったのは1973年にも総合優勝を果たしたフェアレディZのほうだろう。

 昭和が終わるのは1989年(昭和64年)だが、昭和末期の頃に生まれた伝説の軽ホットハッチが、スズキ・アルトワークスだ。そのデビューは1987年(昭和62年)。当時、550ccの排気量という規格で作られる軽自動車において実用一辺倒のエンジンが主流だったが、アルト・シリーズに追加されたワークスのエンジンは、DOHC(当時はツインカムと表現するのが主流)ヘッドにインタークーラーターボを組み合わせるという究極的なエンジンとなっていた。その最高出力は64馬力、まさに初代アルトワークスは2020年代まで続く軽自動車の自主規制のルーツといえる。

 外観にしても2トーン仕様で、派手な造形の前後バンパー、目にも鮮やかなピンクを配したキャビン、レッド地のメーターパネルなど、これでもか! とばかりにスポーツ性をアピール。軽自動車を趣味の乗りものとして再認識させるには十分以上のインパクトがあり、昭和の若者が軽チューンに目覚めるきっかけともなった。

 とはいえ、昭和の終わりといえば日本経済のピークといえるバブル期。若者、とくに男性はカッコいいクルマに乗っていることが、モテの条件という時代でもあった。そうしたニーズに特化したといえるモデルがホンダ・プレリュードで、「デートカー」というカテゴリーを生んだほどだ。

 そうしたデートカーのニューカマーとして、日産が1988年(昭和63年)に投入したのがシルビア(S13型)だ。ヘッドライトとつながるアクリルのグリル、ヘッドレスト一体のなめらかな形状のシートなどは、まさにデートカーとしてのスタイリッシュさを狙ったものだった。

 ただし、シルビアが評価されたのはデートカーとしてのスタイリングだけではない。前述したプレリュードがFFだったのに対して、シルビアは古典的なFRプラットフォームに基づいていたことで、スポーツドライビングにおける素性の良さを評価されることになる。初期型が積んだ1.8リッター4気筒ターボの最高出力は175馬力と、いまから見ればけっしてパワフルとはいえなかったが、チューニングすることのハードルが下がっていくなかで、適度にパワフルで扱いやすいサイズのスポーツクーペとしての地位を確立していく。

 そして、このシルビアが昭和の最後に生まれたことが、後のドリフトムーブメントにつながっていった。


山本晋也 SHINYA YAMAMOTO

自動車コラムニスト

愛車
スズキ・エブリイバン(DA17V・4型)/ホンダCBR1000RR-R FIREBLADE SP(SC82)
趣味
モトブログを作ること
好きな有名人
菅麻貴子(作詞家)

新着情報