ヒール&トゥの目的は立ち上がり加速
かつてレーシングドライバーにとって、ヒール&トゥは必須のテクニックだった。ブレーキング時に右足のつま先でブレーキペダルを踏みながら、カカトでアクセルを煽り、エンジン回転を合わせる。目的はシフトダウン時の駆動輪のロックを防ぎ、車体姿勢を安定させるためだ。
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そもそも速さを競うレーシングカーは減速を目的としたシフトダウンは行わない。コーナーの立ち上がりで、エンジンのトルクバンドにいち早く合わせるためにシフトダウンしている。その誤解が大きい。
しかし現在の高性能ATやDCT(デュアルクラッチトランスミッション)は、コンピュータ制御によって人間以上の速度と精度で変速を行う。しかも変速ショックは小さく、エンジンを保護する制御も組み込まれている。結果として「速く走る」という1点において、もはやMTはATに及ばなくなっている。
では、MTに意味はなくなったのか? むしろ逆だ。クルマを操るという本質を理解するうえでMTには現在も大きな価値が存在する。
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運転が未熟な段階ではドライバーの脳内シナプスは限られている。そこにクラッチ操作とシフト操作が追加されれば、本来重要な情報処理能力が完全に不足する。だからこそ、まずATで車両運動の基本を身体に覚え込ませ、電子制御されるATの変速プログラムを脳内に学習させることが合理的なのである。
興味深いのは、ATを習熟したドライバーほどMT操作への理解が深くなることだ。たとえばコーナー進入時、なぜこのギヤを選ぶのか。なぜエンジン回転を合わせる必要があるのか。ATでの車両挙動を理解しているドライバーほど、その意味を論理的に理解できる。そのためにはATがすぐれた制御で仕上げられているものを選ぶ必要もある。
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ポルシェのティプトロニックやPDK、あるいはBMW MスポーツやAMGなどのモデルにはプロドライバーがキャリブレーション(=正しい基準値と一致するように誤差を確認して調整すること)を完璧に仕込んだモデルも多い。
シニアドライバーが得るMT操作のメリット
MTの操作は、車両運動とエンジン特性を結びつける”思考訓練”とも言える。これは脳科学的にも興味深い事柄のはずだ。車速、エンジン回転、路面状況、旋回半径を瞬時に判断し、最適なギヤを選択する作業は、脳内で複雑なシナプス形成を促す。さらに左足を使ったクラッチ操作で加速/減速Gを連動させ、左右の手による同時異操作は脳への刺激も大きい。
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近年では、MT車の運転がシニアドライバーの認知機能維持に有効ではないかという説もある。もちろん過信は禁物だ。しかし、身体機能を複雑に使いながら状況判断を続けるという行為そのものは、脳に対してきわめて高度な刺激になるだろう。
MT車が持つ本当の価値は、たんなる懐古趣味ではなく、スポーツドライビングの本質でもない。機構を理解し、自ら考え、操作し、車両挙動を感じ取る。その一連のプロセスそのものに意味があるわけだ。
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ただし、その入口は決して安易ではない。間違った操作でエンジンを壊し、最悪クラッシュも引き起こす。だからこそ、まずATで正しいドライビングの基礎を学び、その先にMTを選択するという順番が現代では理想的なのだ。
ドライビングをたんなる移動行動ととらえず、クルマという機械を通じて自らの感覚と判断力を磨いていく行為だと認識し、意識を高めて集中する。3ペダルMTは、そのプロセスで重要な役割を果たせるメカニズムであり、一度形成された操作シナプスは生涯脳内に残り続ける。それは一度自転車に乗れるようになれば、高齢でも乗りこなせるのと似ている。
講師 中谷明彦
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全日本F3000/ツーリングカー選手権などでの優勝、ル・マン24時間をはじめとした海外レースでも活躍するなど経験/実績豊富なレーサーであり、理論派モータージャーナリスト。新車やタイヤの開発にもかかわり、4WD車や電子制御による車両運動性能の解析を得意分野とする。ドライビングアカデミー「中谷塾」を主宰し、現インディカードライバー・佐藤琢磨らを輩出している。
※本記事は雑誌「CARトップ2026年8月号」の記事を再構成して掲載しています