【CカーのDFV】耐久レースにおけるDFV/DFL/HB時代を振り返る

世界選手権タイトルを狙うからこそのコスワースDFV系を選択

 F1GPで多くのコンストラクターが生まれる大きな原動力となったDFVだが、それはスポーツカーレースにおいても同様だった。1953年に世界スポーツカー選手権のタイトルが設定されて以降、タイトル名こそ幾度も変更されてきた。そして90年代以降にはF1GPへの“擦り寄り”が見られることになるが、それまではレーシング・スポーツカーによる世界選手権タイトル、というコンセプトにはブレはなかった。そしてこれもF1GPと同様、メーカー系のワークスチームではV12のマルチシリンダー、あるいはV6ターボといったハイパワーを捻り出すエンジンが投入されることもあったが、プライベーターにとってはDFV…とその発展形であDFLが、唯一にして無二、そしてベストな選択肢であり続けた。日本から遠征した童夢も最初はDFVでスタートしていた。

1977 Inaltera GT Rondeau ロンドーのル・マン制覇に、夢の第一歩
1976年にデビューを果たしたイナルテラGT ロンドー(Inaltera GT Rondeau)は、ル・マン参戦用にジャン・ロンドーが自らのガレージ…アウトモビレ・ジャン・ロンドーで創り上げたレーシングスポーツ。アルミのサンドイッチ材を使用したモノコックにコスワースDFVエンジンをマウント。WEB CARTOP1977_Inaltera GT Rondeau_IMG_1969開発にはポルシェのワークスドライバーとして名を上げたヴィック・エルフォードが関わっていた。ちなみに、イナルテラとはスポンサーの名前で、まだ自らの名は慎ましやかにサブネームで追加されているだけだった。ル・マン・サーキット博物館で撮影。

1981 Rondeau M379 C・Ford Cosworth DFV/1983_Rondeau M382 C・Ford Cosworth DFL
 ル・マン制覇を果たし車名も堂々ロンドーを名乗る
1980年にル・マン24時間レースを制したジャン・ロンドーは、自らの名を冠したマシンをドライブして優勝した、唯一のドライバーとなったが、以後も81年、82年とマシンを正常進化させていった。

WEB CARTOP 1981_Rondeau M379C_IMG_3016カラーリングが異なるから、判断は難しいところだが基本的なシルエットは共通している。エンジンは81年のDFVから83年にはDFL=ボアを拡大した3.3リッター版とボア/ストロークともに拡大した4リッター版あり……にコンバートされてポテンシャルが引き上げられている。ただし81年にはDFLにコンバートされていたとの説もあり詳細は不明だ。WEB CARTOP 1983_Rondeau M382 C・Ford Cosworth DFL_IMG_2771#26の81年仕様M379Cはマトラ自動車博物館で、#72の83年仕様M382Cはル・マン・サーキット博物館で撮影。

1983 Rondeau M482・Ford Cosworth 空力で一段と進化したロンドーの最終兵器
ここまで紹介してきたロンドーは、基本的なシルエットが共通しており、毎年毎年、少しずつ正常進化を重ねていったことが分かる。ただし1983年のル・マン24時間に参戦したM482はドラスティックな変貌を見せていた。WEB CARTOP 1982_Courage C01・Ford Cosworth DFL_IMG_2774アルミのサンドイッチ材を使用したモノコックにDFLエンジンとヒューランド製のミッションをマウントし、ダブルウィッシュボーン式の前後サスペンションを組みつける手法は似たようなものだったが、グラスファイバーで成形されたカウルワーク、言い換えるなら空力に対するパッケージングが大きく変更されていた。

ボリュームが格段に増やされた印象があるリア部分だが、空気の流れも一新されているのが大きな特徴。残念ながら、ロンドーが目指していたル・マンでの2勝目はならなかったが、デビューシーズンとなった82年のモンツァで優勝しており、高速コースでのポテンシャルは折り紙つき。こちらも、ル・マン・サーキット博物館で撮影。

1982 Courage C01・Ford Cosworth DFL クラージュの初オリジナルマシンとなったル・マン・カー
近年は日産エンジンを搭載したマシンで、LMP2クラスに活路を見出しているクラージュだが、そもそもはDFLを搭載したマシンで、この世界に入りこんできた。そもそもクラージュ・コンペティションの創設者であるイヴ・クラージュはヒルクライムからモータースポーツの世界に入り、やがてレースに転向。WEB CARTOP 1983_Rondeau M482・Ford Cosworth_IMG_19801977年にはル・マン24時間デビューを果たしている。それから5年後、彼はオリジナルマシンのクラージュC01を完成させているが、それを可能にしたのはDFLの存在だった。現在ではORECA(Organisation Exploitation Competition Automobiles)がオーナーとなり、レーシングチーム色が一層濃くなったものの、ル・マン24時間やWECシリーズで活躍するマシンのコンストラクターとしての基盤は盤石。これもル・マン・サーキット博物館で撮影。WEB CARTOP1983_Rondeau M482・Ford Cosworth_IMG_1976

1991 Jaguar XJR14 フォード傘下に入っていたジャガーの決断
導入期から1980年代半ばまでは、ポルシェが圧倒的な威力でシリーズを支配していたグループCによる世界耐久選手権だったが、80年代後半になるとライバルが着々と力をつけ、ポルシェのワンサイドゲームではなくなっていった。その先鋒となったメーカーがジャガー。トム・ウォーキンショー率いるTWRがワークスチームをオーガナイズし、またマシン開発も担当していた。そして87年にはジャガーXJR-8でチャンピオンに輝いている。WEB CARTOP1991_Jaguar XJR14

 このXJR-8では7リッターV12エンジンを搭載していたが、V6ターボなどを経て91年のXJR-14では3.5リッターV8のジャガー・エンジンを搭載していた。グループCのF1化を象徴するようなエンジン選択だったが、じつはこのジャガーのエンジン、カムカバーのバッジを付け替えたコスワースのHBエンジン。

当時のジャガーがフォード傘下にあったからこその決断だった。メルセデス・ベンツC11/C291やプジョー905/同Evo.1Bなどライバルも手強く、圧倒的な速さを見せつけることはできなかったが8戦3勝をマークしてチームタイトルを獲得するとともに、テオ・ファビがドライバーチャンピオンに輝いている。イギリス、フェスティバルofスピードで撮影。


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