途中までアメリカで作って仕上げはイタリアでまたアメリカに輸送して販売!? 世界一長い生産ラインをもつと言われた「キャデラック・アランテ」って何もの? (1/2ページ)

この記事をまとめると

■1986年にラグジュアリーコンバーチブルとしてキャデラック・アランテが誕生

■アメリカで組み立てたプラットフォームをイタリアに空輸してボディを換装していた

■ボディデザインはピニンファリーナが担当した

メルセデス・ベンツSLに対抗したキャデラックのオープンカー

 もしも逆境への挑戦が好きだったり、その克服を生きがいとするなら、1980年代のGM首脳陣に転生するのが吉かもしれません。なにしろ、当時のGMはビッグ3の一角をなしながら、ヨーロッパから大量の高級車が押し寄せてきたばかりか、日本車という考えもしなかった大穴が化けそうな気配を見せ、内心はガクブル状態だったのです。そこで、窮余の策というわけでもありませんが、強力なライバル、すなわちメルセデス・ベンツSLに対抗するラグジュアリーカーを開発しようとしたことは、決して悪いアイディアではありませんでした。

 キャデラック・アランテは、1986年に5万ドルあまりの値付けで発売されたラグジュアリーなこと極まりないコンバーチブルモデルでした。この値段は、当時GMのフラッグシップだったドゥビルの2倍以上というもので、裕福なユーザーが少なくないキャデラックといえども、ある種センセーショナルだったことは確かでしょう。

 もっとも、アランテの生い立ちを知れば、もしかしたら5万4700ドルという値段はバーゲンプライスと呼んでも差し支えなかったかと。というのも、アランテはのちに「世界一長い生産ライン」と呼ばれる、じつに贅沢な生産方式を取り入れていたからにほかなりません。

 具体的にどう長いのかというと、まずエンジンや足まわりを組み付けたシャシーをアメリカ国内で生産、これをイタリアはトリノまでボーイング747で空輸、その後はボディの架装とインテリアの仕上げ、完成すると再び747でアメリカへと運ばれ各地のディーラーへ配られるという具合。

 まったく、現代の意識高い系ロジスティック担当者が聞いたら卒倒しそうな非効率ですが、当時のブランドマネージャー、ボブ・バーガーとしては「してやったり」のドヤ顔を浮かべていたはずです。こうした背景こそ、キャデラックが求めていた「付加価値」で、いかにもアメリカ人が喜びそうなサイドストーリーではありませんか。

 なお、キャリアはルフトハンザとアリタリアの双方が使われ、週に80回の往復フライトがあったといわれます。この際、アランテを運ぶための専用アルミ貨物モジュールが作られ、747には56台が積めたとのこと。また、トリノから完成車がデトロイトまで飛んだあとは、アランテの部品(後部コンパートメントやあらゆる電気部品などおよそ7000点)を満載して飛ぶことで空荷を避ける、という工夫もなされたようです。

 そもそも、この贅沢というか非効率な生産方式は、アランテのデザインをピニンファリーナに依頼したことから始まっています。1983年、GMと契約を結んだピニンファリーナは、すぐさまトリノの郊外、サンジョルジョ村にアランテ専用工場を設立。テスタロッサやモンデイアルの製造ラインとは一線を画すことが必要だったからです。


石橋 寛 ISHIBASHI HIROSHI

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